2013年10月6日日曜日

Sam の創作「橋」への感想 (2)

友人たちとの文通記録

Ted から Sam へ: 1959 年 12 月 29 日[つづき]

 私の記憶に間違いがなければ、私が高校三年の夏休みに書いた、大学生の常夫と、あいの子のケートのみが登場人物である、小説というよりは小説的粉飾をわずかにまとった対話形式の小論文といった方がよい作品(注 1)の冒頭も、佐武のこの作品と同じ言葉で始まっていたか、あるいは、その冒頭近くに、この言葉があったようだ。私(当時の私に筆名を与えるとすれば、江二辛苦ぐらいのところか)(注 2)の作品にどのような思想を盛り込んだのだったか、もう十分よくは覚えていない。佐武の「橋」と江二の「逍遥試し」の初めの部分を並べて比較してみたいが、後者はいま、私の手もとにはないので、それを詳しく行なうことは出来ない。(注 3)

 織女橋という固有名詞が出現することは、Vega というニックネームの少女が登場する江二の「夏空に輝く星」(注 4)とも、この作品が姉妹的なつながりを秘めていることを示していて面白い。一雄の言動は、当時の佐武をほうふつさせる。二人のカズオは、どちらも作者の分身のような感じだが、彼らの性格は、原子の周囲の電子の運動状態において縮退している二つのエネルギー順位が、外部磁場の作用によって上下に分かれるような感じで、陽と陰、積極と消極の僅かの差を与えられ、簡潔にだが、要所要所でよく書き分けられている。一雄の特徴的な笑声は効果的である。
「エーッ!」気合いを掛けて彼女が橋の欄干を越えて川の中に落ちていったのではない。駈けてきた二人が驚いて発した間投詞である。
というところは、人をくいすぎた書き方、というより、この作品の他の部分との調和を保っていない、ナンセンス漫画的感覚の文章である。
晴子は、一昨夜、海王小学校の校庭で右足をを前方に軽くあげると同時に両手を叩く動作をする時に、左足がよろめいて、見ている人達の方へ転びそうになった時のような顔をして言った。
というのも、当時われわれがときどき使用しあった形容様式であり、その様式としては一つの傑作だが、ここではもっと簡潔にした方が、「まあ、カズオさん!」という言葉の響きを損なわないのではないかと思われる。[つづく]
引用時の注
  1. 題名はあとに記してある「逍遥試し」。夏休みの宿題として提出したこの作品は返却して貰わなかったが、下書きが交換日記に記されていた。何年か前にそれを読み返したところ、無口だった私の性格を合理化する「沈黙賛美論」のように思った。
  2. 実際の交換日記上での Sam のニックネームが Something であったのに対応して、私 Ted は Anything だった。
  3. 「逍遥試し」の冒頭は次の通り。Sam の作品は、同じ 1 行目を使って書き始めていたと思う。
     「君はいま何を考えていた?」
     照りつける陽光を受けて、それを豊富な葉の間に抱え込んだポプラの木々が微笑むように立ち並ぶ人道を、しばらく無言で歩いて来た常夫は、ケートにこう聞いた。
     「……」
     ケートは歩きながら、行く手の彼方に霞んで横たわる山の辺りへ向けていた青い瞳をちょっと彼の方へ転じたが、黙っていた。終点で折り返す電車の音が、彼らの後ろの空気を揺すって遠ざかった。
  4. 私の高校 2 年のときの作品。こちらでダウンロードできる。

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