2013年4月15日月曜日

「傍観者」を「知人」に


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 8 月 20 日(月)晴れ(つづき)

 「話が合わない。」これは Jack の言葉。彼は Sam や Minnie に対して、こういって遠ざかろうとしているようだ(うがち過ぎかもしれないが)。(先日 Minnie のシラミ事件と書いたのは、文法の時間に Sam のいう「アバン的アプレ型」先生が彼女の頭を指して「シラミがいる」という例文をいわれたので、彼女が泣き出してしまったということだ。(注 1))共作の『復活』読後感に、Jack は二面性のある人物は「いけない」と書き、ぼくは「神でない限り、誰でも二面を持ち、日向と木の下闇という異なる場所でつねに一つの面を持ち続ける人はほとんどないといってよい」と書いた。しかし、いつでも一つの面しか持たないで、その一面の上にあらゆること——それは、実にいろいろなことだ——をのせているとしか、ぼくの目には映らない人物…(いま、ぼくはどうかしている。先に考えたことが根本からくつがえされそうだ)…とにかく(というのは無責任な言葉だが、ここではこれを使って少し考える時間を先へ延ばすしかない)、Jack は敬遠し始めている。ぼくも、その二人(とくに Sam を除いた一人)に対しては、何でもずけずけとはいえないような気がする。(こんなことを書いている時間も惜しいくらい、知らないことは多いのに。それでも、この考察は何かになるだろう。)
 そういう気はしても、「傍観者」なら「親しい友だち」の下(Sam がこれらの分類を紹介してくれたノートが手もとにないので、その名称(注 2)が分らない)くらいにまで引き上げたい。ぼくの欲望(たったいま、この言葉に気づいた)は、Sam とぼくの間には、この通信帳の始まりという形で運河を通じさせた。しかし、運河以外のところの交通(感情などの)では、Sam からぼくへはよいとして、ぼくから Sam への場合、いまなお…。

 何のために? 何度考えても、机上(頭の中の)には白紙がおかれている。武者小路実篤の『人間万歳』。
 Jack は午後学校へ、ピアノの S と会見し、解析の質問に応じ、その他のこと(何か知らない)をするために行った。
 鼻血の固化したのが鼻から出て来た。どうも軽快な気持になれない。
引用時の注
  1. 中学 2 年生のときのこと。「アバン的アプレ型」先生は、中年で温厚・真面目な国語の先生だったと思う。その先生ともあろう人が、いささか配慮のない形で例文をいわれたものだ。
  2. 「知人」である。こちら参照。

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