2013年3月21日木曜日

昼寝していた友を起こして


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 31 日(火)晴れ

 いつ行ってもいる者と、いつ行ってもいない者が、だいたい決まっている。脚のから振りを二回して、洗ってごわごわしていたシャツを湿らせて(この頃は毎日こうなる)、もし次に訪れる友もいなければ三振になるというときにたどり着いたのは、半ゲーム差を二ゲーム差と誤算した友の家だった。窓から顔を見せていた兄さんが、Jack は寝ているといった。彼に近づいて耳を引っ張ったり、鼻を衝いたりしてみたが駄目だ。兄さんに足で蹴られて起きたと思ったら、廊下を伝って奥の方へ行ってしまった。
 戻って来た Jack は、また横になったが、兄さんに口の奥を狭くして出すような声で注意され、椅子にかけ直し黙っていた。それでも、われわれは他の者とそのよにうしているときに感じるような空虚を感じなかった。そのうちに、Jack は自分の赤く日焼けした胸を見つめるようにして口を切った。新しい話でもなかったが、古い話でもなかった。
 Jack はシャツを着てズックをはいた(彼の足駄は歯の入れ替えに出してあるそうだ)。こうして帽子をかぶった彼は、みずみずしい感じがした。この出発は突飛でもあり、熟議の上でもある(われわれ二人の熟議は、単純で大胆で時間を要しない)。途中、敦賀高校と高岡西部高校が覇を争っている球場の近くへ寄って、塀の下に自転車がきれいに並べられ、その上に立って場内を見ている人垣を見物した(入場料は、学生 30 円、一般 50 円なのだね。金沢一高チームに北島、通善、仲田、筆矢、横井、殿田、加藤らの選手がいた頃には、同じここでの試合が無料だったが…)
(注 1)。そこを離れたあとも、Jack が「声かれんかな」と心配したほどの声援がわれわれの耳に届いた。Twelve の家へ入っても、球場の場内アナウンスの声が聞こえて来た。
 Twelve は目の粗いシャツを来てわれわれを迎え、YMG 先生の家が斜め後ろに見える二階の部屋へ通してくれた。青々とした庭が見下ろされる。Twelve がちょっといない間に、ぼくは Jack に Twelve の「京大目差して…」と書いた貼り紙を教えた。Jack が机の前に回ってその紙と目との距離を普通の明視距離以下にして読んでいると、Twelve が戻って来て、「そんなもん」といって引きちぎり、まるめて屑篭へ入れた。エープリルフールの翌々日だったかに、Twelve に出会ってしまい「宮殿」へ行きそこねた Jack とぼくが、この部屋で彼の中学三年三学期の勉強予定表を発見したときも、彼は同じようにしたのだった(その予定表の方は用済みだったが)。
引用時の注
  1. 球場は、旧兼六園野球場で、この日、夏の甲子園大会北陸予選の決勝戦が行なわれていたのだろう。金沢一高チームというのは、選抜中等学校野球大会が学制改革に伴い第 1 回選抜高等学校野球大会となって開催された 1948 年に、仮の校名「金沢一高」として甲子園に出場した旧金沢三中チーム。当時、石川県から選抜出場を果たしたのが珍しかったのと、私が野球に関心が強かったのとで、いまでも上記の選手中、北島、通善、筆矢、殿田の名を覚えている。それぞれ、投手、捕手、遊撃手、一塁手だった。筆矢選手がキャッチボールの練習のときでも、上半身を深く前屈して一刻も早く捕球する姿勢を忠実に実行していたのが印象深かった。

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