2013年2月28日木曜日

土井垣捕手のショウマンシップ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 日 20 日(金)曇り一時雨(つづき)

 実況放送が観覧席に聞こえるのが面白い。ラジオを持参して聞きながら見ている人たちがいるのだ。田中投手がタイムを要求してスパイクの先を何かしていると、「タイムを要求しまして、ちょっとスパイクの先を…」といっているのが聞こえる。バックネットをオーバーするファウルフライのとき、われわれの多くは球の行方ばかりに気をとられていたが、放送を聞いていた登山帽氏はいった。「なるほど、『キャッチャー、マスクをはずして追わんとし』たわい。」球がとっくに右翼スタンド外へそれ出てしまい、ボールボーイが場外へ駆け出している頃に、放送は「ライト線ずーっと右に切れました。ファウル」と、うまいこといっている。

 雨が激しくなったとき、試合の一時中断が宣告された。われわれは一斉に立ち上がって、雨の防げるところへ下りて行きかけた。すると、急に雨音が小さくなって、試合再開となり、われわれは席へ戻る。しかし、席はびしょぬれで、腰を下ろせない。立って見ているうちに、グレイのユニフォームの大映は、塁上を駆け回って得点を重ね、10 対 3 で勝ってしまった。ぼくは、知らない人の傘に入れて貰っていたので、右腕が濡れるだけで済んだ。

 間もなく、毎日オリオンズが入場する。別当選手を探し出した頃、雨は全く止んだ。土井垣選手も写真で知っている通りだ。この試合(変則ダブルヘッダー第二試合)でも、彼は大いに元気だった。ファウルフライをスタンド際まで追って、シングルハンド・キャッチ、拍手、と思ったら落球。球審は手を震わせるようにしてから、横へ広げた。土井垣は太い目と大きな口をふくぶくしい顔の中で派手に動かし、ミットをたたき、身をそり返しながら、高くて大きな声で抗議した。右手に持ち替えて投げようとしたとき落としたのだから、捕球したことになる、と。しかし、受け入れられなかった。

 投手は投球を再開した。球審が「ストライーク」といったときには、土井垣はポンと立ち上がって、打者の顔を見、打者の後ろへ歩んで笑みを浮かべながら返球する。「ボール!」ではミットを長く捕球位置に止めて笑っていたり、立ち上がり、顔をしかめて、球審の顔を食い入るように見つめたりする。次の「ボール!」で、彼は後ろ向きになって立ち上がった。怒るように何かいった。もう一度いった。ベンチの方へ駈けて来た。叫んでいる。大変だぞーと思ったら、水を飲んで戻って行った。打球が飛ぶと、一塁カバーに駈けて行き、戻るついでに相手チームのベンチ前で、顔の前に飛んでいる何かを口で捕まえようとするかのように頭を動かしながら、何か叫んでから走って来る。その姿は可愛らしくさえある。

 「大根バッタァー! ミス神戸、死んだぞー!」とスタンドからやじられた別当選手は、憤然として三塁打を左翼線にたたきつけた。ここで、2 対 3 から 4 対 3 と、毎日が逆転し、その後は毎日が得点を重ねるばかりだった。二つの盗塁失敗や凡失を続けた近鉄はみじめだった。試合が終わる頃には濡れたシャツも乾き、腕は海水浴に行ったように真っ赤になった。

兼六園球場でプロ野球観戦


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 日 20 日(金)曇り一時雨

 Jack が使ってわれわれを笑わせたことのある言葉でいえば「強制的に貰った」入場券で、野球を見に行く。KZK の小父さんが、昨夜 150 円の前売り券(内野席)を持って来て、「明日行ったらいい」といわれたのだ。早飯をして、開門の一時間半後に兼六園球場へ行く。三塁側に陣取る。話しかける者もいないから、顔の向け場に困る。帽子の色が一度にはげるほど日が照りつけてはいないが、暑い。野球狂の Kengo が、UW 君の表現によれば「くしゃくしゃ」の顔で、観戦に来ている。「オス!」とそばへ行く気はしない。コーチャーズボックス後ろから外野席にかけての内野席は、ぼくが入ったときはがらがらだったが、次第に埋まって、Kengo も見えなくなってしまう。

 近鉄パールズ入場、続いて大映スターズ入場。誰がどれで、どれが誰か、スタルヒン投手以外は、すぐには分らない。しかし、スタンド内を十円で売り回っている背番号入り選手名鑑(雑誌『少年』五月号付録)を見ながら、「29 か。苅田、3 は、3 は…、坂本。 6 は…島方」などといっている後ろや横の人たちの声で、かなり知り得た。フリーバッティング、シートノックも終ると、柴野・石川県知事が始球式をするとのアナウンスがある。後ろの席で、「国鉄の金田ァ、キカンもんや。こないだノーダン満塁からあと、三者凡退にしたが、キカンもんや」などとしゃべっていた登山帽姿のおやじさんがいった。「わしゃ石川県に六年もおって、柴野さんの顔知らんが、どんなごじんやら、いま初めて見てやる。」彼は望遠鏡を取り出す。サングラスをかけてプレートについたサウスポーの柴野さんは、ぎこちないフォームで投げ、大映のトップバッター山田に空振りして貰い、ちょこちょこと小股で引き下がった。

 昨日まで七勝四敗の林投手を起用したスターズは、パールズをさんざんにかき回していたが、空がかき曇って来て、われわれは夕立に見舞われた。(つづく)

2013年2月27日水曜日

電話という文明の利器


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 20 日(金)曇り一時雨(つづき)

 金太先生のおかげで金ちゃん(金へん景気みたい)に自慢できた。「逆上がり」、「足掛け上がり」、金ちゃんに対して絶対にひけをとらなかった。それから Funny のところへ行った。彼はちょうど、友だち四人と挙行した宝立山登山キャンプから帰ったところだった。彼の家で電話を借りる。Ted は電話という文明の利器に対して自信があるかい。ぼくは大苦手だ。受話器を耳にあてると、脚がふるえそうだった。いや、ふるえていたかもしれない。何しろ、こんなものに接するチャンスは一年に一度あるかどうか分らない状態だから、心細い。
 3、5、1、6、3、…(間)…「ハイ! モシモシ。」「モシモシ、SWD さんですか。I・T 君呼んで貰えませんか?」これは Funny の声。……(長い間)……(金ちゃんが代って受話器を持つ)…(間)…(やがて下駄の音がして)「やぁ! 何や!」「いっちゃんか? オス!」「明日、海行くがやろ!」「おん。」「それでな、時間ヘンソウ。」(「金ちゃん、違うがいや、ヘンコウ」とぼくがいう。金ちゃん、しらん顔で)「ほんでな、十時ちゅうとったやろ。」「うん。」「それがな、二時にしんか。」(そこで、金ちゃんはぼくに受話器を渡す。ちとまごつく。横から Funny が「いっちゃん、あっさりしとるさかい、はよういわんと、切ってしもうぞ。」(やはり上がり気味に)「いっちゃん。」(すると向こうから)「さっきまでの声、金ちゃんやろ。」(そう、といおうとしたら、金ちゃんが)「ちごぅ、ちごぅ。」「ほんなこというても分る。」(そこで、ぼくが続ける)「あしたまであわんことにしとったさかい」(少し早口だった。)「何やてェー。」「あのなあァー、あしたまでェー、いっちゃんとあわん約束やったさかいー、電話でガマンせいや。」「うん、分った。」「それでな、いおうと思うとったこと、おおかた金ちゃんしゃべってしまったけど、あしたなぁー、金ちゃんも連れて行こう思うがやちゃ。」「しゃあーない。連れて行こう。」(金ちゃん「何やてェ、連れて行く?!」とふんがい。)「それでなあー、時間、二時にならんかい。」「昼からか?」「あったり前やわいや。」「うん。ガマンする。」「ほんだけや。」「まだ切るが、もったいないな。」「何かおもっしいことないかい。」「うん、いまなあ、わし、[アイス]キャンデー持っとるがやちゃ。ほーやさかい、あんまり長いことしゃべると、溶けちもうがや。」「ワハハ…(思わずふき出し、声が高いと、ギクリ)ほんなら、溶けんうちに食んまっし。」「あした二時やな。場所、前の通り。ほんでいいな。」「いいぞ。」「さいなら。」「さいなら。」ガチャン! 済んだ! かくして用件は見事伝達された。テクシーよりも自転車よりも葉書よりも便利だ。Ted との連絡にも利用できるとよい。きっと、お互いの勉強になる。

 あのことは、きっと今夜の僕を悩ますだろう
*。「あのこと!」それは Ted にいってはならない。Ted の最も軽蔑しているもののひとつだから…………。
 何でもよい。結果においては益するところ無である。
Ted による欄外注記
 * 可愛そうだが、具体的に書かなくては、どうも出来ないじゃないか。いくら悩み好きの(そうではないのだった)ぼくでも、いま、悩みは一つも持っていない。さし当って軽蔑しているものもないがね。

後日の追記
 この記事の Facebook へのリンクに対して、M・M さんから次のコメントをいただいた。
 「何だか漫才みたいな電話での会話。それをそのまま文章に起こしてるのを読むととっても面白いです。固定電話どころか電話を何処にでも携帯できる時代が来るなんて、夢にも思わなかった頃ですね。」
 これに対して、私は次の返事を書いた。
 「私は固定電話のある家も滅多になかったその時代に、携帯電話のようなものを夢想していました。ただしそれは、キーで番号を押すデジタル操作で接続するものでなく、携帯ラジオのダイヤルのようなものの精度をよくしてアナログ接続するものでしたが。私のその頃からのもう一つの夢想は、列車の代りに、個人用または家族用の小さな車両を駅で随時借り出すことが出来て、レール上を自動運転で目的地までスムーズに運んでくれるという乗り物システムです。どこかの国で実験用のものはもう出現しているとか。」

図形で感じを表現


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 19 日(木)晴れ

 何にも書く材料がない。考えたこと、思ったことでも書こうと思うが、それも駄目。
 今夜、法船寺で無料の映画会がある。題名は「おれは用心棒」。題からのみ判定すれば、さほどでもなさそう。

Sam: 1951 年 7 月 20 日(金)曇り一時雨

 Jubei-san からの葉書について。
  • われわれは何かちょっぴりだけ、よいことをしたように思わせられる。
  • 彼は表紙に大きなミスのある名簿を紛失したのかな。それとも、それを見ることが邪魔だったか。そうでなかったら、われわれの試みを心[しん]から理解してくれたのだ。
  • おもてに日付を書く必要は、特殊の場合を除いて、まずないね。消印を見ればちゃんと分る。時によると日付を書いたために、ボロを出すこともある。
  • 「暑中御見舞」という字は、明らかに Ted と Jack の判定が正しい*。ただし、それに「同化する」ことさえ出来れば、それは喜ばしい。
  • 「あの日」、「あの日」、「あの日」、具体的でありながら、抽象的だ。
  • (家じゃないよ。)これが、この葉書を見ての感じ**

 この上に要求されるものは、より以上の正確さと、さらにスピードだ。実用できる技術にしなければならない。帰りに定時制で補修を受けている YM 君に会い、校門の前で立ち話をする。やはり、映画の批評なども、自分一人で思ったことを記すのもよいが、他の人びとと意見を交換し合っていった方がよい。帰宅すると、大急ぎで夕飯をすませて Ted のところへかけつけたのだが、ちゃべちゃべとぼくのことを思ってくれたために、どちらも損(とまでいい切れないが)をしてしまった。(つづく)
Ted による欄外注記
 * これについて何も判定を下していない。[引用時の注:Sam は私の日記にあった、S さんから Jack 宛の葉書についての私の言葉を、Jubei-san からの葉書についてのものと思ったのだ。]
 ** :Sam からぼくが受ける感じ

2013年2月26日火曜日

「S、東京へ行くがやぞ」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 19 日(木)晴れ(つづき)

 大学病院の門の付近で、百数十米向こうから、帽子を被らないランニングシャツ姿で、リヤカーを引いて来る少年を認めた。そこで、ぼくは木曽坂を彼とともに、再び下ることになった。ジャガイモを三つのごわごわした袋につめてきた Jack は、ぼくと会わなかった二日間を語った。忙しそうだ。同じだ。けれども違う。そして、ぼくは、いまこうしているし、Jack は昨日の午後、Lotus の家で寝ていたという。彼は忙しかった話のあと、紫中のプールからのバチャバチャという音とキャッキャッという声の聞こえる下を通るとき、こういった。
 「S、東京へ行くがやぞ。」
 T「…………………………」
 J「いいなぁ。」
 T「…………………………」
 J「"音楽の" やぞ。」
 T「うん。」——
 J「旅行や。それでも、いいなぁ。」
 I「うん。」——
 J「Jubei-san から二通葉書来たぞ。」
 T「わしのとこも。持って来た。」
 J「わしも。」
 T「へぇー。」
 J「いっしょなこと書いとるな。」
 T「『気の弛み勝ちな』とか、『呉々も』やな。」
 J「『これを機会に君と文通しましょう』やて。自慢らしい。」
 T(J から渡された三枚目の、"ピアノの S" からの葉書を見て)「自分で崩したがでない字やな、こりゃ。」
 J(同じ葉書を覗き込んで指差し)「何や? これ。」
 T「『おうかがい』や。これか。『うらやましいでしょう』や。『(解析のことじまんらしい)』とあるぞ。カッコして何や。この辺[行が]ぐねぐねやがいや。」
 紫色の像を思い浮かべる必要はなかったのだ。主語はあったが、簡単過ぎたじゃないか。Jack の話は記者的でなく、小説家的だ。
(注 1)
 Jack の家では、お互いに問題を出し合って(教科書からと、自分で作ったのと)、解析の試合をした。
引用時の注
  1. われわれの友人に、姓の頭文字を S とする同姓の女生徒が二人いて、一人は中学のとき Jack と同級だったが、高校はわれわれとは別の I 高校へ行っていた。私は高校生になってから、彼女に関心を抱き始めていた(私の心の中で彼女はなぜか「紫色の像」だった)。日記には Minnie のニックネームで、たまに登場する。もう一人の S さんは、Jack や私と同じ高校にいて、この頃、われわれと同じく新聞部にも属していたが、ピアノを得意としていたので、"音楽の S" あるいは "ピアノの S" といえば、こちらと分るのだった。Jack はこの頃、ピアノの S と少しばかり親しくしていた。この日 Jack が「S(実際には頭文字でなく、姓をいっている)、東京へ行くがやぞ」といったとき、その姓を聞けば Minnie の方を思い浮かべがちだった私は、彼が Minnie の東京への転校について情報を得たのかと思って驚き、長い「……」で表したように、しばし言葉が出なかったのだ。実は、彼は "ピアノの S" から、夏休みに東京へ旅行にいくという葉書を貰ったことを話したのである。

2013年2月25日月曜日

母と散歩


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 19 日(木)晴れ

 Oчень занят (= Very busy) だ。
 昨夜の月は大きかった。向かいの家から Sound が、彼の母と妹と一緒に、夕方どこかへ出かけて行くのを見た。ぼくの母もぼくを散歩に連れ出した。汗もかかないし、蚊にも刺されない、気持のよい散歩だった。聖母の心を持つ母と、悶々とした心を持つ息子は、一緒に歩いた。月に向って、市営住宅の尽きるところまで歩いた。月とちょうど向き合うところに早くから出ていた Venus の他に数個の星が認められるようになる頃の帰途、K 判事の家の前を通った。
 母「ここの息子は手が長くて、高校を退学になったがや。お父さんが検事やとか判事やとかいうがにね。」
 ぼく「ふーん。その妹、一年におる…。」
 母「…小母さんは ×× 学校の英語の先生やったがや。」
 ぼく(道理で、彼女は英語が少しばかり出来るようだ。)
(注 1)
こういうわけで、日記が少ししか書けなかったのだよ。

 葉書は使い始めたら、続けざまに使いたくなる。でも、もったいないから、書きさしのようなのを使った。昨年の正月に使い切るべきだった、"OMEDETO" の下に虎がスクーターに乗っている版画を押したのが一枚あったのだ。受取人は Tom だから大丈夫。「夏ボケしたのじゃないかって? 心配しなくていいさ」などと書いておく。
 Jubei-san からわれわれ宛に、「お便り有難う」と書いて来た。季節の「節」の一部が「おおざと」の形になっている。小学生的な間違いだ。いや、他人のことばかりいえない。ぼく自身も「事件」の発端となった手紙に二つのミスをしていた。たいしたことではないだろうが、気になって仕方がない。

 暑さで空気のゆがむ午後の、影の短いうちに、Jack を訪ねる。藤五郎がそれをして金を発見したのと同じ作業に、前の家の方へ行ったということだ。(つづく)
引用時の注
  1. 母が私を散歩に連れ出したのは、かなり珍しいことだ。私が K 判事氏の子息のようにならないよう、一言いっておきたかったのかと、いまになって思う。

新しいものを教える困難/祖父と風呂屋へ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 18 日(水)快晴

 朝のうち、家の中はテンヤワンヤだった。狭い家が超満員になって、上を下への大騒ぎ。たいしたものだ。これから毎日こんな日が続くと思うと、はなはだ愉快になる(そんなによい意味でなくて)。
 全く新しいものを教え込むということは、生易しくはない。ぼくはわけて下手なのかもしれない。いや、別に Ted と将棋のことについてだけいっているのではない。まず、それに興味を抱かせ、難しいもの、分りにくいものでないことを納得させ、ぼつぼつ手ほどきするのが一番(ともいえまいが)よい方法ではないかと思うが、なかなかうまくいくものではない。

 誰かの家よりは、ぼくの家では時間が長いと思ったろう? へんてこなところで Ted を置いてけぼり同様にして別れたので、気の毒だった。すぐ学校へ行ったが、時間は少しだけ早かった。
 きょうは、第三指と第四指の練習を主にする。第三指のつもりで第二指を動かしたり、違ったキィをたたいて平気でいたり、指の感覚がマヒしてしまったようだった。

Ted: 1951 年 7 月 18 日(水)晴れ

 朝から風呂へ行く。ぜいたくだって? いやいや、これは辛い仕事だよ。祖父を連れて行くのだ。耳は遠いし、脚はおぼつかないし、…。風呂がすいているときに行かなければならないのだ。

 Sam のいう「へんてこなところ」で別れてからのぼくはどうしたかって? どうもこうもないさ。何度来ているか知らないが、道を覚えることはきわめて下手なので、うっかりすると「へんてこ」という言葉のもとになっている家のある小路へ迷い込むかもしれなかった。それでも、足の向くままに行進した。昨日対面し、きょう葉書が訪れているはずの友の家の見えるところで、やっと自分がどこにいるか分った。そして、その家の前を通らないで、初めての道をたどって帰ることにした。

2013年2月24日日曜日

自転車旅


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 17 日(火)曇り

 十時頃、Mario(AR 君)、Jackie、Neg の三人が自転車でぼくを呼びに来た。Neg とは昨日会ったばかりだが、他の二人とは久しぶりだ。さっそく OK する。
 昭和通り—中橋駅—国鉄グラウンド—北安江町—ガード—金沢駅—笠市町—横安江町—武蔵ヵ辻—昭劇前—JOJK—白鳥路入口前—味噌蔵町—材木町—Neg の家、というコースを四台の自転車が後になり先になりして、楽しく笑いあいながら、事故を起こすこともなくなく、無事ゴールインした。Neg の家では、Mario が蓄音機をかけ、Neg とぼくは半年ぶりで五目並べをした。
 車庫前(北鉄本社前が正しいかな)で一日の 1/8 を費やした長い遊旅にピリオドを打った。
 家へ帰ると、祖母が墓参りに行く準備をしていたので、大急ぎで昼食を食べる。きょうは、母の母(といっても祖母ではない)の墓へ行くのである。

MR 君の休み中の計画


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 17 日(月)雨のち止む(つづき)

 MR 君は model plane など作って、おとなしく家にいた。彼が家にいたため、明日、へんな結果が生じることになってしまった。仕方がない。二階の彼の部屋へ上がる。彼宛にきょう出した葉書中の想像は正しかった。休み中の計画(という名において、堅苦しいもの)が、ミカン箱を左右の脚の下に置き、椅子に腰かけて使えるようにした机の前に貼ってある。
 「十二時間以上勉強すること
  京大目差して」
(注 1)
などと書いてある(「十二」の文字には◎印が添えてある)。「努力」の二字を書いた紙もその横に貼ってある。貼り紙は合計五枚もある。額に市長賞を入れて掛けてある。後ろの本棚には、父君の日本古典文学書がずらりと並ぶ。
 「わっしゃ、生物悪かったわーィ」、「英語に 8 があるさかいな、これないがにせな。単語どうして覚える?」、「夏休み終わったみたい気して仕方ない。秋みたいやな」、「何する? 話するか? 対談。Please sit down!」などの言葉で、小柄な秀才君との時間は始まる。「でかなったがんないかいや」と、改まって白い顔でぼくを見上げたりする。会話にはあまり弾みがつかない。

 彼の隣りの妹の机の上にある英語の宿題のプリントで、ぼくは誤字発見機
(注 2)の性能を試した。野田中の二年生である彼の妹のプリントを作ったのは仲谷先生だ(注 3)。先生は相変わらずそそっかしい。tuilp、真験、自分自信、ひと目でこれだけの誤字を見つけた。一枚目のプリントの上部に Home Task とあり、その横の文字が勇ましく面白い。「自分でやれ」。二枚目の下三分の二ぐらいに、蟬が鳴き、雲の湧いている詩(英語じゃないよ)が書いてある。詩のあとに自分の名の果(たかし)の代りに多加志と書いて、タカシと仮名をつけてある。阿呆の呆より一つだけ上の果に飽きて、多加志を売ろうとしているらしい(注 4)。先生は、一九四九年九月十二日(月)に "We can see neither the little girl nor his father." を訳す問題を出された。この答案にぼくが、his を斜線で消し、her と書き添えて出すと、"O! I am sorry." と朱書して返って来た。好きだ。いまでも、"O! I am sorry." が必要だ。
 MR 君の玄関で、「いつか遊びに来い。いつ来る?」というと、「気の向くとき」と答えた。それは物騒だ。しかし、明日届く葉書で条件などを伝えられるのだから、心配はいらない。「明日驚くな」ともいわないで別れた。

 雲がちぎれて来た。紫。橙。そして空色。昨日から何もしていない——。だけど、時は流れている——。
 何もしていない。赤い。ガチャガチャガチャガチャ、ヒクヒクヒクヒク、ジーなどの音。涼しい。澄んでいる。赤い。青い。そして、全てが藍色がかっている。
 Neg の声はすぐにそれと分る。彼のはずだ。Sound とその弟もいる。Neg は、明日来るぞ、と Sound に告げて、飛ぶように去った。
 下駄の音。手も脚も赤い。ときめく胸は白い。
 また、下駄の音。小石を押しつぶすような自転車の音。
 赤は灰色になった…。空色は薄くなったが、空色だ。
 黒くなって来る…。
 これは詩じゃない。姿と思と始だ。
 何も聞こえない。さあ!
 何が始まろうとしているのだ?
 待っていても始まらない。
引用時の注
  1. この文字を見て、それまで地元の金沢大への進学しか考えていなかった私は、「そういう手もあるか。伯父が京都に住んでいるから、困ったときには相談にも行けるのだ」と、京大を志望する気になった。MR 君は、私の進路によい示唆を与えてくれた陰の恩人である。
  2. 私がよく誤字を指摘することから、Sam は彼のアルバム中の私の紫中卒業交換写真への説明に「誤字発見機」と書いていた。
  3. 仲谷先生は、私が紫中の 2 年生のときのクラス担任で、英語も習ったが、学年途中で転任された。
  4. 「多加志」はペンネームだったのだろうが、「阿呆の呆より…」などと、私も恩師に対して失礼なことを書いたものである。しかし、このあとで「好きだ」と書いているところを見れば、先生のあっさりした性格を好んでいたのである。

雨傘を振りながら逍遥


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 17 日(火)曇り

 われわれが通信をしているのは、ぼくが Sam にいろいろ頼むためのようだ。Sam の方からは、何も頼んで来ないので、気が引けるが、いままた頼まなければならない。Sam に書いて貰うよりも、Sam のホームのホーム委員長に書いて貰ったらいっそうよさそうだが、一応、Sam に頼むから、どちらかで書いてくれ給え。他のホームのホーム委員長でもよい。Sam が知っていて、書いてくれそうな人物だったら、その人にも頼んでくれ給え。わが校のホーム研究委員会の YMG 先生から、委員の一人ひとりに頼まれたもので、自分のホームについて書く他に、他校のも聞けたらとのことだ(別紙参照)。しめ切りは来月末。

 雨が降らなかったから、そして、Jack が予定通りイモ掘りに行ったから(こんな予定を彼が持っていたことを、うっかり忘れていた)、午後いっぱい逍遥することにした。『リーダーズ・ダイジェスト』を片手に Jack の家へ向うところだった Lotus は、紫中の前でぼくに出会い、時間と下駄の歯と精力の無駄な消耗をしないで済んだ。
 逍遥の決心をしたのは、天徳院まで引き返してからだった。行き先が決まっていないのだから、会うと行き先を聞きたがる動物のうち、ぼくを知っている者に出くわすことを懸念しながら歩く。その辺の土地が陥没したと新聞に出ていた下百々女木(しもどどめき)から馬坂を下る。青い岩を伝って落ちている滝に屋根をかけて、不動明王とか決め込んだところがある。その滝には、目の悪いのを治してくれるという迷信か理屈抜きの科学かがある。頭を下げたり、その水で目を浸したりこそはしなかったが、いくらかの敬虔の念を持って
(注 1)駈け過ぎた。馬坂は、cos の値を 0.866 とする角度の傾斜は十分にあるから、自然と駆け足になる。坂を下りて左へ曲がり、天神町、材木町を通る。昨日 Jack や Octo と往復した道を直行し、材木町小学校のそばの SM 雑貨店へ来た。ここで逍遥は止む予定だったけれども、第二人称に必ず「きみ」を使う SM 君の丁寧な話し方を思い出したら、彼に会う気にはならなかった。

 なお少し直行して、あとはジグザグに行くうちに、裁判所前へ出てしまう。エカテリーナ・マースロワがヒロインである小説の裁判の場面や、小学校六年のとき AR 先生にここへ見学に連れて来られ、窃盗犯の裁判を見学したことを思い浮かべながら、車庫前から石川門への陸橋をくぐる方へ折れた。消防自動車のガレージの時計は二時十五分。Sam がバドミントン君と来たのは、アルバイトのための公共職業安定所ではなかったかなと思っているうちに、Scap Library を過ぎ、通った経験のない道路上を傘を振りながら歩き始めていた。
 茨木町とはここだということを初めて認識してから相当歩んで、ようやく新竪町小学校の前を通る道へ出る。犀川に沿って上りながら、連日の雨でとうとうと流れている川面の眺めを楽しんだ。公設運動場からの帰りによく通った道を探して、猿丸神社の見える坂の下に達したのは、だいぶん無駄な歩き方をしてからだった。雨の子どもの日(憲法記念日だったかい?)に、Funny と一つの傘に入って立っていた場所は、いま、なぜか不快に思われる。「宮殿」のごく近くだから、その辺りをうろうろしたくなかったが、ここまで来ていながら MR 君の家を訪れないのはあらゆる法則に反することだと考えて、彼をたずねることにした。(つづく)
引用時の注
  1. 私は早くから近眼だったので、それが治るものなら治したいという気があったのだろう。

2013年2月23日土曜日

タイプライティングの講習


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 16 日(月)曇り

 ぼつぼつ忙しくなるぞ。夏休みの宿題は、どんなことがあっても七月中に完成しなければならない。
 午前中は、少しだけペン習字をした以外、さして変ったこともない。
 午後とても、Ted とJack のところへ空脚を運んだあと、Neg と二人で北国劇場で君たちに会ってからは、別に取り立てて書くこともない。
 『月世界征服』の感想? すばらしかった。スリルがあった。科学性があった。それから、面白かった。——漠然としているね。——
 Ted と別れた後のぼくが講習時間に間に合わなかったのではないかと心配しているかもしれないね。あれから Neg と二人で(途中で一回、空気の補給を行なって)大特急で駆けつけた。Neg とは校門の前で別れた。ちょっとだけ遅かった。それでも間に合った。講習といっても、いつもと変わっていない。でも、自分の教科書を打つなどの勝手な真似は出来ない。ぼくたち(といっても、大部分は女生徒で、男生徒はマネージャーを入れて三人、総計十数人)は、中指、すなわち第二指(人差し指が第一指)の練習から入る。
 in in in in in ..........
 in in in in in ..........
 me me me me me ..........
 me me me me me ..........
つらいこと、つらいこと。でも、こうしていうるちに自然に位置と指の動かし方が分る。家へ帰ったら、ちょうど ♪タァラ、ララーラ、ララァーラタァ、ラーァラララァーララララー♪ という音楽で「向こう三軒両隣り」が始まるところだった。

映画 Destination Moon


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 16 日(月)雨のち止む

 一年中で最も多くの計画を立てられる四十一日間も、その計画をどう配分して押し進めるのがよいかが難しい問題だ。午前中はほとんど能率を上げられなかった。原子ロケットの原理を説明するディズニイの漫画映画がその中に出て来る映画を見に行くために、早い昼食をしなければならなかったせいもあるが。

 Destination Moon
(注 1)はトリックがいかに用いられるかの勉強をさせてくれるものだった。「夢想の実現」という夢想が実現するのも遠くないことだろうが、それでもまだまだだろう(注 2)。このような宇宙に挑む話は、小説や漫画で、これよりも複雑な筋のものを読んだから、たいして感動しなかった。この映画では、四人の科学者しか働いていないし、彼らが活動する背景も、ロケットの出発地、ロケットの中、瞬きもしない無数の星の見える宇宙の一部、月面のごく一部ぐらいでしかなく、全体が、何かごつんと突き当たるような狭さを感じさせた。新しいことの敢行と大きな力への対抗とに必要な太い心胆、どんなときにも心を和らげ勇気までも与えてくれるユーモアの力、自己を犠牲にしようとすることの荘重さ、などが表されていた点ではよかった。

 Sam ならばどうするかね。二十日に兼六園球場で毎日対近鉄と大映対近鉄の試合があるだろう。阪急の試合だったら文句はないのだが。せっかく連れて行ってやるといわれても、熱の入らない試合では…。バックネット裏か、内野席か、外野席か知らないけれども、連れて行ってくれるという人は母の学校の事務官で、相当の年配の人である。この小父さんはからは、いまはいているズボンも、三日前まではいていたズボンも貰っているし、大阪へ行って来られたときには、名物粟おこしも貰うなど、とても親切にして貰っている。四角くて、大きくて、褐色で、しわのある顔は、一事に熟練したような力強さもあるが、(大きな声では、いや、大きな字では書けないが)野球通ではないし、風采は堂々としているとはいえないし、…。どうも困ったものだ。
 しかし、見に行こうと思うよ。好意に抗しては悪いだろう。
引用時の注
  1. 1950年、アーヴィング・ピシェル監督製作のアメリカ映画。原作はロバート・A・ハインラインの『宇宙船ガリレオ号』。1951 年アカデミー視覚効果賞、1951 年ベルリン映画祭冒険部門銅熊賞受賞。邦題『月世界征服』
  2. アメリカ合衆国のアポロ 11 号が歴史上初めて人類を月面に到達させたのは、1969年で、この日記のときから 18 年後だった。打ち上げ日は奇しくもこの日記の日付と同じ 7 月 16 日。月面着陸は 7 月 20 日。

祖母と墓参に


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 15 日(日)雨

 こんなことは滅多にないそうである。お盆に雨が降るとはケシカラン。でも、しなければならないことは、しなければならない。九時頃、小止みになったので、さっそく支度をして出かける。墓所は野田山にある。祖母はバスには絶対に弱いから、電車よりほかに頼るべき交通機関はない。大和の前で電車に乗ればよいものを、うっかりして、東宝の前で乗ることになった。さらに、寺町終点で電車を降りるとき、うっかりして、新しいズボンを汚してしまった。
 少しばかり空が明るくなってきていた。墓番(というのかい)のところで、一休みしてから、山へ登る。雨の後の山道はぐちゃぐちゃで、汚いこと甚だしい。下駄をはいて行ったので、一歩一歩注意して歩く必要があった。
 野田中学の前辺りまで戻って来たときから、雨がだんだんひどくなり始め、びしょぬれ一歩手前で電車に乗り、家へ帰った。

 午後、金ちゃんのところへ遊びに行く。相変わらず、彼は将棋では圧倒的に弱いし、ぼくは碁では圧倒的に弱い。だからバイショが合わなくて、面白くない。たった四ヵ月ぐらいにしかならないのだが、ずいぶん変るものだね。いままでになかった新しいものが、彼に備わっていた。あとで、下宿しているあんちゃんと将棋をさした。クロスゲームで愉快だった。戦績二勝一敗。最初は三筋を中心に攻撃を行ない…、といったところで、よく分るまい。いまでも、将棋をしたいとは思わないかい?

盆の行事


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 15 日(日)雨

 いま頃になって梅雨らしい雨が続く。細かい点になったり、糸になったり、針金になったり、止むことがない。日曜には早く目を覚ますのだが、長く続く休みの最初の日は、その一日の活用部分を短くしてしまっても、まだまだ楽しい多くの日を作ることが出来ると思うためか、遅くまで寝てしまう。仕事——Sam のそれのように生産的あるいは動的なものではない——に取りかかれるのが五つ半。祖父のひげ剃りのための水を洗面器に汲んで来たり、捨てに行ったりするうちに、正午になっている。
 きょうを中心とする三日の間に、または来月のその期間に、仏教を信じる人びとが花束やロウソクを持参して行なう行事のため、母と出かけた。雨の大谷廟所の境内には、切子は少ししか下がっていない。ロウソクを握って火を移し、環状のロウソク立ての一ヵ所に立てて、炎の上で震えている空気を見つめると、何かを誓わざるを得なかったが、何も考えていなかったので、手を合わせても唱える文句がとっさには出て来ない。せっかく来たのだから、何でも心を新たにしようと試みた。角封筒に入れたものを受付へ出し、名前を呼ばれ、ひざまづいて、僧が「理解しながら読も」うともせずに読む経文を聞かされるという退屈な行事を省いたから、電車に乗るだけが第一義のような外出だった。第二義として、Octo に明日の映画鑑賞の時間を伝えた。

2013年2月22日金曜日

小学校で映画を見る


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 14 日(土)曇りのち雨(つづき)

 新しい定期券入れが欲しいと思ったので、大和へ行く。エレベーターと階段の間のところで、安原村のあんちゃんたちが西瓜と南瓜の安売りをしていた。大和の定期券入れは気にくわなかった(品物はよいと思ったが、八円のおつりを貰う必要があったから)ので、宇都宮へ行ってみた。最安価なのを求める。

 階下の YSA 君が長町小学校で行なわれる映画を見に行こうといってきたので、雨が降っていたが、OK した。最初は、今春行なわれた『アジアオリンピック大会』の記録映画。これは一回見たものだったので、さほど興味がわかなかった。
 続いて、紫中を卒業するとき、サイン帳に何人かが書いてくれた四文字と同じ題の映画がある
*。これも一度見た。でも、がまんしてもう一度見ることにする。きょうは「父の巻」だけしかないそうだ。そういえば、この前のときも、「父の巻」しか見なかった。食事、登校、月謝、盗難…と続くストーリーは一度見たものであるだけに、次々と思い出された。男の子(よし坊というのかい)が『母いずこ』の本を読んで叱られる当りから、ぐんぐんと画面に引きつけられるようであって、かえってそれとは別に、ぼく自身の脳裏に自身の過去をぐんぐんたぐり始めた。掘り始めた。どうしようもなかった。第一巻が終わって明るくなった。ふと後ろを見ると、Funny とKeti が来ていることに気づいた。
 やがて第二巻が始まった。もう時計は十時近くを示しているだろう。YSA 君があきたのと眠くなったのとで、帰ろうといい出した。ぼくもたまらなくなってきたので同意した。
 外へ出ると、ちょうどトンチ教室の鐘が鳴って終わったところだった。宿題は折り込み都々逸で、「は、や、お、き」である。
 話は戻るが、「うそをつくということが本当のことをいうよりも真実であることがある」ということを、この映画は教えているそうだ。
(注 1)
Ted と Sam 交互の欄外注記
 * 『さよなら』という映画があったかな? 『真実一路』。立派な言葉を何人もサインしてくれたね。
引用時の注
  1. Sam が見た『真実一路』は、田坂具隆監督による 1937 年版。第二巻は「母の巻」。私は 2012 年になって、川島雄三監督による 1954 年版をテレビで見たが、そのときは、Sam のこの日記をすっかり忘れていた。1954 年版への私の感想はこちら

2013年2月21日木曜日

一学期の終業式


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 14 日(土)曇りのち雨

 衛生室を普通の日の三倍の人数で大掃除する。ぼくと他の一、二名は回転窓のガラス拭きだ。回転窓の下の二枚の窓をはずして降ろし、その上に馬乗りになってするのである。ほこり(内側)と泥(外側)にまみれていて、簡単には美しくならない。ぼくと共同作業者とは、時間の大半を窓ふきでつぶした。
 いよいよ終業式。といっても、アセンブリーと何ら変わるところがない。最初に生徒会副会長から一昨日と昨日に行なわれた校内球技大会と水泳大会の結果の発表があり(マイクが悪くてよく分らない)、次いで賞品授与が行なわれた。
 引き続いて、終業式に入る。校長が壇上に立つ。「昨今来、校下十数地区の PTA 地区委員会をもったのであるが、父兄方のご意見によると」と、まず「よく勉強するようになった」など、聞かされたよい点を挙げる。それが一通り終わると、「着帽しないで外出する」とか「所定の時間外に昼食を食べる」とか、悪い面が指摘された話になる。すると三年生の方で騒がしくなり、主としてあなどったような、あざけりの声が出る。たまりかねた金太先生が「いま、終業式なんだぞ。君たちはそれでも学生か!」と、一喝する。校長は「いま木南先生がおっしゃった通り」とでもいうかと思っていたが、そのまま話を進めて行く。それでも、その後二度ばかり校長は、「静かに!」という声を発しなければならなかった。その度に、どこからともなく「シーッシーッ」という制止の声が起こる。ディーンから、夏休みについての注意が少しばかりあって、ホームへ入る。
 ホームでは、もう一度、ホームルーム・アドバイザーの訓話を聞かされる。ぼくともう一人の生徒(高中出身で生徒会長をしていた)とに、いまやっと「奨学生採用通知書」が渡された。「最初の奨学金交付は諸手続き上、凡そ1ヵ月後になります」だと。それでは、来学期にならなければ駄目なんだ。
 帰る前に図書館へ寄る。ぼく自身、別に読みたい本もなかったから、Ted のために少しでも役に立てばと思って、「わずか何十万かそこらの人間が一つの小さな場所へ集まって押し合いへし合いしながら、その地を醜い奇形なものにしようといかに骨を折ったところで…」という書き出しの本(ただし、上巻だけだが)と他の一冊を借りた。二十一日が返還日だから、Ted には二十日までに返して貰わなければならない。とすれば、一日でも早く Ted に渡した方がよさそうだ。(つづく)

2013年2月20日水曜日

加藤和枝のレコード


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 14 日(土)晴れのち小雨(つづき)

 Octo の家へ行こうとして出かけると、父兄会に行かれる Lotus の小母さんに会った。「いらっしゃるんですか」といわれた。主語が省略されていて、要領を得ない。Jack も時々こんな話し方をするが、彼の方が要領を得やすい。母は家にいないし、父兄会にも行かないから、「いいや」と答えた。答えとしては正しかったが、考え方は合っていなかった。
小母さん「皆さんおいでるんだといって、待ってましたよ。」
ぼく「へぇ、そうですか。」
小母さん「KJ さんも来ていらっしゃったし。」
ぼく「じゃ、行きましょう。」(待っている人には招待されなかったから、誰が行くものか。)
 夜になると「深山の月」というネオンサインの輝く高砂屋の角を曲がると、Kies がショロショロとした歩き方で来るのに会った。招待された一員だなと思ったが、念を入れて聞くと、やはりそうだった。

 Octo は留守番をしていた。例の通り、沈黙と傑作な(この形容動詞の語幹は、二つのことを思い出させて、いけない)話とを交互に繰り返した。
 Octo の家の前の鉄筋コンクリートのアパートは、かなり出来上がって来た。見下ろしたり見上げたりすると、クリーム色のところと灰色のところとがある。最後にどちらの色になるか分らない。クリーム色は明るくて、夏の空の下にずしりと構えているのにふさわしい。灰色は、大連の桃源ビルを思い出させる。そこの三階ぐらいの窓から、当地の表現では「松原病院行き」の若い女性が身を乗り出して、歌を歌ったり、フランス語か英語か分らない言葉をぺらぺらしゃべったりしているのを見に行き、ぼく自身までもが誇大妄想狂になったかのように感じた、ある日曜日を経験したのだ。
 三十円で鑑賞できる映画は、Sam が持っていた券がなくても、生徒要覧を見せれば三十円になると掲示板に書かれていたのを Octo が見て来て、行きたいと思っているといった。それで、明後日一緒に行く約束をした。雨が近づいている気配だったので、Lotus の家にいる Jack も誘ってみるといって、Octo の家を出た。

 Lotus の家へ行くと、屋根の上で何かをして遊んでいた Lotus、Jack それに Kies が、誰が来たかとという面持ちで下りて来た。Jack と話をつけてから、「まぁ上がれや」に応じた。トランプで Napoleon、School などをし、レコードを聞き、Kies とぼくは五目並べをし、Lotus と Jack は屋根に寝転がった。…雨が降り始めた。「大本営発表」と Jack がいった。「大根や菜っ葉。おばさん! 洗濯物入れて!」と Lotus。(坊ちゃんだなぁ。)
(注 1)
 Kies は、加藤和枝
(注 2)のレコードを、速くあるいは遅く鳴らして悦に入った。Lotus は Jack に、紫中での座席が Jack の左斜め前だった人物のところへ遊びに行くかなどといった。(どうかしている。)
 小母さんが帰って来られ、Lotus は飛んで行く。戻って来た彼は、Jack に固い約束をさせて、母親が学校から貰って来たものを彼にだけ見せた。

 OKB 君から Lotus のところへ来ていた最新の手紙には、試験のことばかり書いてあった。解析で九十点取れればよいほうだと読めたから、勇ましい!と思い、よく見たら、九と思ったのは五だった。書かれている文は、Sam やぼくが Jubei-san 宛に書いた葉書
(注 3)の表だけの分量しかない。これで八円だから、切手がもったいない。夏休みになるのだから、ぼくも大連時代の友などに、二円なり八円なり使うことにしよう。(注 4)

 訴えるような目つきの Vicky と顔を合わせない四十一日間の計画を立てようと思うが、こまごまと全日程を書くことは出来そうにない。Jack は国語は何時間、解析は何時間などと決めて、サボった時間数が多いと、自ら未終了の判定を下すそうだ。
引用時の注
  1. 「おばさん」と Lotus が呼んだのは彼の家に来ているお手伝いさんだった。それで私は、「彼は坊ちゃんだなぁ」と思ったようだ。
  2. 美空ひばりの本名。
  3. 7 月 13 日の日記の冒頭に、便りを書いた記述がある。それは、この Jubei-san(KWH 君)宛の葉書についてのものだったらしい(もったいぶった書き方だったので、掲載時には、ひょっとして女生徒宛だったかと思った)。Jubei-san は Sam やぼくと同じく紫中を卒業したが、われわれのどちらとも異なる I 高校へ行っていた。
  4. 当時の郵便代は、葉書が 2 円、封書が 8 円だった。

2013年2月19日火曜日

夏休み前日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 14 日(土)晴れのち小雨

 普通ならば Sam のブランク時間である時間には、ホームへ入った。大掃除の割当をして、奉仕に取りかかったが、一番楽だと思ったわれわれの作業は最も辛いものだった(セネカの原理
(注 1)かも知れないが)。われわれが担当したのは中庭だ。イチョウとカエデの枝が切り下ろされて、山積みになっている。われわれはシャツやズボンを泥まみれ、露まみれにしながら、それらを引きずって運んだ。運んだ跡の地面には、密林から大蛇が這い出して通りすぎたかのように、ベトベトで拾いたくもない細かい枝が、長く平たく連なる結果となった。
 次の時間はクラブ。ぼくの好まない計画の討議だ。しかし、絶対的理由があって、決定事項には参加しないから、平気で聞いていた。
 最後の時間には再びホームへ入った。Crow 先生は、紺色のズボンの前をベルトの上へ繰り返し引き上げながら話された。「恥ずかしいということを考えないで下さい。かといって、恥を知らないでは困ります。恥を克服するつもりで、ひとつ、一学期に不十分だったところを、二学期にしっかりやって下さい」と、われわれがいままでに何度となく聞いて来たのとあまり変わらない内容だ。先生が教壇で頭を下げられ、それに対してわれわれが「さようなら」といったり、いわなかったり、礼をするものと、しないものとさえいたりした後で、わがホーム選出生徒会議員の SM 君、ホーム会計の OB 君、それにホームルーム委員のぼくは、重大な相談をしなければならなかった。それは、恥ずかしくて、困難で、不運で、失敗で、ある理由があって Crow 先生には相談することの出来ない問題だった。ことの中心に Crow 先生 が関係しているのだから。三者会談は成功した。ホーム会計が、この場合にそれが出来得る限りの善処だと思われる発案をしたからである
(注 2)
 枝の引きずり作業時からズックの底の剥がれがひどくなり、右足を踏み出す毎に、前部のペランペランが裏へ曲がったり、床でペタンと音をたてたりするので、不愉快だった。(つづく)
引用時の注
  1. 7 月 1 日付けの日記に引用したセネカの言葉「何びとも自分の負担を最も重いものと思う」を指す。
  2. ホームルーム・アドバイザー・Crow 先生の幼い子息の一人が病死し、ホームのメンバーから香料を徴集したのだが、徴集が完了したのは先生が忌引きも終わって出勤された後で、私は先生に渡しにくくなり、そのまま保管していた(少しの遅れぐらい構わずに渡せばよかったと思うのは、後の知恵である)。この「三者会談」では、その金の扱いを討議して貰った。OB 君が、学年終了時に先生への感謝の記念品代とすることを提案し、その執行については、私から次期ホームルーム委員に依頼することになった。私は、その依頼をする際にも、私が渡しそびれたという理由での恥ずかしい気持があり、それを紛らわすために、古文調で説明を書いたメモを後期ホームルーム委員の M・U 君に手渡した。彼は、「候文のすばらしい手紙を貰った」などと、そのときのことを覚えていて、最近も語っていた。こちらの恥ずかしい思い出が、向こうのすばらしい思い出になっているのはありがたいことである。

校内水泳大会の日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 13 日(金)曇り

 Ted のところへ行ったら、いうべきことと、相談すべきことが、少なくとも一つずつある。いうべきこと:ぼくは十五日の午前に墓参に行くだろう。相談すべきこと:Ted と(二人だけでなくてもよい)植物採取(Ted もしなければならないのだろう)に行きたい。次は伝達事項:来る十六日から十日間、タイプライティングの講習を受けることになったから、その期間の五時以後は家にいない。また、一日をつぶす計画をしないように望む。受講場所はわが校の 18 教室である。速記の講習も受けたいが、これは確定していない。もし受けるとすれば、七月二十三日から十日間、時間は午前中だったと思う。

 きょうも手ぶらで学校へ行く。水泳大会があることになっている。朝のホーム時の出席を取っているとき、「タイプライティング・クラブの部員は朝のホーム後、十八番教室に集合して下さい。重要な話がありますから」という放送がある(「重要な…」は、どの放送でもお決まりである)。急いで行ってみると、二、三人しか集まっていない。ようやく五、六人集まったところで、クラブ責任者の NKMT 君から夏休み中の講習について話がある。その内容は先に記した通り。
 水泳大会を見に行こうとすると、10 ホームのところで、Funny がホームメートと将棋(もちろん、駒は紙の即製品)をしている。こりゃぁ面白い!と思い、ふらっと将棋盤に近づいて、応援弁士の一人に加わった。「第四コース! 高木くーん! 十三ホーム!」などというアナウンスを耳にしながら、 9 × 9 の盤に見入る。形勢は逆転・再逆転して、Funny の投了と相成る。
 Funny が図書館から借りていた本を返すのについて行ったあと、タイプの練習に熱中した。Funny はきょう初めて、ぼくがこれをやっているのを知って、少しばかり驚いていた。途中、一度だけ水泳大会の様子を見に行った。「ただいまより耐水競技を行いまーす。最初は七ホーム KTGW 君!」七ヵ月前までは Ted と同じホームだった KNJ 君だよ。彼は三十五米泳いだ。この競技の最高記録は五十米、最低記録は十七米(29 ホームの生徒!)。もう一つ、二十五米背泳を見た。これには二人しか参加しなかった。もし、ぼくが加わっていたら、三着になれたわけだ。寒そうで気の毒だった。水泳大会は正午まえに終了。

 新聞部では、十六、七の両日にわたって、粟ケ崎でキャンプを催すそうだ。持参品は、毛布一枚、ロープ十米以上、飯ごう一個、スプーン一個、米四合、砂糖または塩一合、など。費用は三十円で済むが、この持参品は大変だ。Ted はキャンプの経験があるかい。ぼくは、いまだかつて一度もない。出来ることなら参加したいが、これは断念した方がよさそうだ。

2013年2月18日月曜日

「幽玄の美」を通り越して


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 13 日(金)小雨のち晴れ(つづき)

 図画の Pentagon 先生
(注 1)の講義はいささか退屈なのだが…。「…というわけなんです。んで、…」、「君たちの多くは…」、「…と、私は思うわけなんです」。こういう言葉がやたらに多い。きわめてゆっくりした話し方だから、Sam なら楽に速記できるだろう。「大陸的な雄渾な気宇に満ちたプラン」である唐招提寺について、写真を見せながら説明された。続いて、その建立者である唐生まれの僧・鑑真についての話と、鑑真像の写真からわれわれが何を感じ取るべきかについての話があった。
 「君たちの多くは、こんな写真よりもヤ、映画俳優や、野球選手のブロマイドを、見る方が、よほど、嬉しいんじゃ、ないかと、思うんすが、それはヤ、人間の、発達段階に、おける、ほんの初歩に過ぎんと、私は思うわけなんです。」
 「ブロマイド」と「初歩」は甘い発音でいわれた単語である。鑑真像の写真を見てわれわれが騒ぐと、先生は、「君たちは、えらい喜んで、みえますが、たんに、盲(めしい)である、ということで、なんですね、軽く見て、笑っちゃ、いかん」といわれた。われわれは「幽玄の美」を見ることを通り越して、「かんしん」(Pentagon 先生は鑑真をこう読む。正しくは「がんじん」)の頭と Pentagon 先生の頭との光り方が似ているのに感心したのである。
引用時の注
  1. 私の日記では、実際に使われていたこの先生のあだ名に似た音の英単語を当てた。

真っ白な Affability


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 13 日(金)小雨のち晴れ

 困難な仕事だったけれども、今度は出せるから、形式上は成功だ。控えは取らなかったが、あれから十五行書いた。六つの人名がその中に入っている。外国人も一人いる。どうだね。
(注 1)

 何ともいえない一瞬を経験した。その一瞬は、それまで分らなかった affability というものを分らせてくれた。それは確かに、affability だった。Affability と呼ばなくては、ほかに呼ぶことの出来ないものだった。これを示したのは、しなやかな身体や豊かな胸を持っている存在だ。その存在の、生木の切断面のような雰囲気を持つ顔の中で動く唇を見ていると、空で変化する雲を見ているよりも飽きることがない。しかし、ぼくは、その奥に何か胸につかえるものを感じていた。存在そのものは軽やかなのだが、周囲には重々しさがたれ込めている感じがあった。その存在は潤いを与える役をする。潤いを受け止めるには渇きが必要だ。その渇きが、不自然に起こって、不自然な潤いが与えられる。これまで、その存在がぼくに与えていたのは、そういう印象だった。
 ところが貴重な一瞬がこの印象を破って、affability という言葉で呼べるものをその存在の中に発見させたのである。その存在が弁当を開きかけているときだった。ぼくの役目がその一瞬を作ることを余儀なくした。
 そして、それは affability だった。以前にも多く経験しているはずの、しかし、それと気づかなかった affability だった。あのとき、何を持って相対されるとぼくは予期していただろうか。—— Affability というものに気づいていなかったぼくには、予想不可能だったのだ。
 真っ白な affability ——。Affability には万人向けのものと、それよりも小さい正整数のない正整数同士のものとがあろう。細かく分類すれば、用途にもいろいろあるだろう。しかし、きょう見たのは、対人関係の根本、われわれが転がるためのベアリングとしての affability である。澄んだ川底を転がっている石ころのようなわれわれであっても、整備された舗装道路を高速で駆け抜ける車が持つような優れたベアリングを必要とする。水面を透して射し込んで来る日光を受け取っているだけでは不足なのだ。われわれは常に与えようとし、与えられようとしている。全てのわれわれの間で——。
(注 2)(つづく)
引用時の注
  1. 友人への手紙を書いたということであろう。「あれから十五行書いた」とあるので、途中までは Sam に見せてあったもののようだ。宛先も内容も、いまは記憶にない。
  2. 小学校でクラスは異なっていたが美人の噂の高かった女生徒(中学時代は学校も異なっていた)と、高一のホームルームの時間だけ出会うことになり、彼女は気になる存在の一人となっていた。先方は澄ました人物で、こちらには無関心だろうと思っていたことが、「周囲には重々しさがたれ込めている感じがあった」という表現になったのだろう。この日、ホーム委員としての役目上、彼女に話しかける必要が生じ、さわやかな愛想のよさで応答され、感動したのだと思う。具体的なやり取りを記しておかなくて、記憶にもないのは残念な気もするが、喜びを抽象的に記し、そうすることをまた喜ぶのも、青春時代特有の現象であろう。

2013年2月17日日曜日

校内球技大会の日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 12 日(木)曇りのち雨

 朝は普通通り登校。といっても、それは時間のことで、道具は何も持たない。校門を入ったところの掲示板に「晴天ならば球技大会、雨天ならば水泳大会」と記してある。ホームに行ってみると、プールに面した側の窓が全部、はずしてあったので、水泳大会になるのかと思っていたら、放送で球技大会をするとの知らせがあった。ぼくたちのホームはどの種目にも勝ち残っていないので、すぐに帰れると喜んだが、正午にもう一度出席をとると聞かされ、帰ることが出来ない。ホームルーム・アドバイザーの助言で、中止になりかけていた夏休み中のホームの行事について話し合うことになった。
 費用、候補地、日時について順に討議し、百円程度、最高百五十円までということで、高松の海水浴場行きを七月二十八日に実施と決定。旅費は百円の見込み。雨天となった場合は、八月四日の登校日に再検討することにした。費用の徴集のため、二十五日に登校することも決めた。こう書くと、スムーズに決まったようだが、実は議論はあっちへ飛んだり、こっちへ飛んだりして、延々一時間にわたった。

 外出証明書を貰って、UED 君と校外に出る。例の金沢○○○○○○○へ行くためである。やっぱり、全然ないと聞き、むなしく帰った。Scap Library に立ち寄ろうとしたが、火・木は午後一時からということで、駄目だった。
 帰校すると、職員対三年生(何ホームか分らない)のソフトボール試合が行なわれていたので、見物する。生物の永藁先生が投手。ソフト部のコーチだけあって、なかなか上手だ。それを見飽きてから、フニャフニャのボールでバレーの円陣パスをしている仲間に加わった。ボールもボールだが、プレーヤーもプレーヤーだ。とうとうばからしくなって止めてしまった。
 そのうちにサイレンが鳴った。ようやく解放されるんだなあと、とても嬉しくなった。ホームに帰ると、数時間前に決定したホームの行事がプリントとして渡された。それによると、期日は二十七日(金)ということになっている。金沢駅発午前七時十一分、同着午後五時八分。これならちょうどよい時刻だ。

2013年2月16日土曜日

階下のおうなごが…


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 12 日(木)晴れのち雨(つづき)

 社会の時間にフランスの第四共和国憲法で行政に関係のある条文を発表した ISZ 君(医王山中出身)の口調は、活弁のようだった。活弁というものを実際に聞けば、全く異なると思うかもしれないが、凡人並みの口調ではなかった。力んで、かみしめるようで、すらすらしている。難しい言葉について質問されることを用心してか、前もって辞書を引いて来て、説明を挿入しながら発表したのが、よいようで悪かった。「批准」についての説明は、昨日の夕刊に「条約の批准は来春か」とあって、ぼくはその意味を知らなかったから、ありがたかった。しかし、「特赦」の説明は、ぼくを「言い直せ」とつぶやかせ、先生を「おかしいね」といわせ、さらに発表を中断させるものとなった。フランスに「天皇」が現れたからだ。ISZ 君は、「辞典を見たらそう出ていました」と答えた。それは日本の特赦のことさ。

 雨の降り始めた中を帰ろうと運動場の方へ出ると、ユニフォーム姿のナインがグランドでノックを受けていた。Tacker が大きな声で、「ほーら、逃がいた!」、「あんな投球、なんなるい!」
(注 1)などと大きな声でいうから、こちらが赤面した(自分の顔は見えないから、こういう表現を使う作文は下手なのだそうだが)。ベンチを運んで来たルース顔の名選手に Jack が「どこと試合あるがや」と聞いたときの答えが「専売公社」だったから、ほっとした。あの下手な連中はわが校の選手ではないのだ(注 2)

 いなだ
(注 3)に添えて皿の上にあった食物について、祖父が母に質問した。「こりゃ、こんぶかいね。」母が「きんじそう(注 4)」と答える。祖父「そうかいね。きんじそう。植物とは思えん…。うーん、こんぶやね。」自分の思いが修正出来ない種類の耄碌(もうろく)のようである。

 階下の女子(古文中では「おうなご」と読む。紫中3年生)が、「夏休みの講習を受けたら、どれだけよいことがあるか」と質問に来た(きょうは、質問や答えという言葉がよく出て来る)。「そりゃ、とてもいいぞ」と、昨年のプリントを出して見せたら、「品詞を書け」という問題に「連用形」などと書いたのが出て来た。彼女が部屋を去るとき、「本見せてあげっか」といったから、「うん」と答えたが、ウシの首にネコ用の鈴をつけてくれたような結果になった。持って来たのは『少女』という雑誌だ。一字も読まないで突っ返した。

引用時の注
  1. 「逃がいた」は「捕球を誤り後逸した」の意。「なんなるい」は「何になるか、どうなるか」の意。
  2. 金沢専売公社の野球チームには、この翌年国鉄スワローズに入団した宮地惟友(よしとも)投手(1956 年、出身地の石川県営兼六園野球場で日本プロ野球史上 3 人目の完全試合を達成)がいて、北陸では強い方のノンプロ・チームだったはずだが。
  3. 夏の油の少ないブリを干した金沢名物。
  4. きんじそう(金時草、錦紫草)は、加賀野菜として人気がある。キク科。和名スイゼンジソウ。学名 Gynura bicolor DC.

2013年2月15日金曜日

かわいそうだった解答者


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 12 日(木)晴れのち雨

 アセンブリーは、そして、「私は誰でしょう」は飽きることがない。司会者の読み上げる一語一語が、会場のわれわれに何かを叫ばせた。

 各クラブから出すことになっていた解答者は、ぼくの知らない間に、各ホームから出すことに変更になった。きょうのショートホーム時の校内放送で知らされたそうだが、われわれのホームにはその放送が全然入らなかった。昼食後、Jack たちとぶらついていると、十五ホーム(ほかにも数ホームあった)のホーム委員は、いま直ぐ生徒会室へ、とスピーカーが叫んでいる。Jack がこれこれだろうというので、立腹しながら生徒会室へ行った。狭い生徒会室はごった返している。万年筆と紙を持って、何かを調べるような顔つきをしている上級生に、「何ですか」といった。用件は Jack の話で分っていたのだが、われわれのホームはあくまで聞いていないのだから、こういってみたのだ。「アセンブリーの」とか答えて、相手は一人でうなずく。「アセンブリーの何ですか」とたたみかけては気の毒だから、少し離れて様子を見ていた。十六ホームのホーム委員の MR 君がノートの切れ端に書いたものを提出して行った。なるほど。もう一度さっきの上級生を捕まえて、「十五ホームですが、決められません!」といった。相手は持っていた紙の十五と書いてある上にレ印をつけた。ぼくが出ることにしておいてもよかったが、「賞品をもらう役だから自ら出たのだろう」と思われてはいけないので、そうはしなかったのだ。

 「私は誰でしょう」の司会者は長身の二年生で、新聞クラブ所属、先回のアセンブリーの「われらの学園」の司会もした人物である。開始の音楽や拍手、そして「私は誰でしょう!」の声まで NHK のと同じだ。録音盤を借りて来て使ったらしい
(注 1)。司会者は、鐘をならす役からの連絡を受けるイヤホーンをつけて、最初の解答者に相対した。後ろには赤、緑、ダイダイ、紫などのテープが揺れている。
 一人目の解答者は MTOK 君とかだ。「私はスイスで生まれて、のち、フランスへ行きました」を第一ヒントとする問題の第二ヒントのとき、会場の一番前にわれわれと一緒にいた Octo が、「ルソー。ジャン・ジャック・ルソーや。わしの調べたがと一緒や。世界史の本にあった。山上先生、笑うとる」などとつぶやく。そうだ。社会科で習ったばかりだ。解答者は答えられず、司会者は会場のわれわれに解答を求めた。われわれは一斉に手を挙げた。司会者はちょっと講堂の奥を見たが、そちらには余り手が挙がっていなかったと見えて、目を Jack とぼくの上に注ぎ、Jack を指名した。ぼくが彼の耳に答えをささやいたとき、「理想?」と聞き返した彼は、うまく賞品をせしめた。
 歴史上の人物として、第一ヒントに小倉百人一首の歌が出たのがあった(百人一首を得意としないぼくは、その歌を忘れた)
(注 2)。Octo は今度も、「坊主や。蟬丸の次に偉いがや。誰やとな。むかつく…」とつぶやきながら、「記憶の再生」手続きを踏んで、「西行や!」にたどりついた。第三ヒントあたりの、本名・佐藤義清が出たところで、ぼくの記憶も再生された。

 Dan が解答者として登壇したときは、われわれの方に落ち着いた笑顔を見せ、時の人を選んだ(ぼくも解答者になったら、そうしただろう。ただし、選択のことだ)。第一ヒントに、何年にどこの学校を出て、共産党に入ったということが出た。Dan が Jack に渡して行った『現代用語…』という本を、ぼくが取り上げると、ちょうどそのヒントと同じ記述のあるページが出た。われわれは、「金」の字を宙に書いて見せた。しかし、Dan は次のヒントを聞いて自力で理解し、力強く答えた。「キム・イルソン!」(あとで聞いたら、われわれがせっかく彼に送った信号には気づかなかったということだった。)
 Massy も時の人を選び、第五ヒントに達しないうちにシャウプ博士を当てた。アセンブリーの始まる前に、Jack に『現代用語…』を使ってぼくに出題をさせてみたら、シャウプ博士のところを読み上げたので、ぼくは、たまたま、何年にコロンビア大学卒業という第一ヒントで分ってしまったが。古橋選手やモロトフ・ソ連副首相が出たあと、OK 君が「私の名前は漬け物に関係があります」というヒントの歴史上の人物を当てた。
 Lincoln 先生のホームの OD 君には、「ケンタッキー州で生まれた」Lincoln が出題され、彼は第一ヒントで答えた(この出題は偶然だろうか)。会場全員に対するノンセクションで、スコットランド生まれの、宣教師になろうとした人物が出た。Sam はこれだけで分るかい? ぼくが振り返って見ると、誰も手を挙げていない。もう一秒、正しいかどうか考えても大丈夫と思ったのがいけなかった。ぼくと同じく最前列にいた十五ホームの Peace(TM 君)が手を挙げた。司会、「そうですッ。」しまった! 最後に解答者全員が登壇して、ワンヒント・ゲームが行なわれた。これは、ぼくの全く知らない映画人だった。

 初めの方に出場した解答者のかわいそうな話を書かなければならない。彼は風紀委員長で、経済研究クラブ所属(クラブ長かもしれない)である。首がいささか曲がっている。Jack の説明によると、能登の方へ転校した OKB 君の親友だったそうで、頭がよい。ときには不気味な目つきをするが、優しい心の持ち主である。選んだのは架空の人物で、第一ヒントが長く、司会者が読み終えないうちに第一ヒントの解答時間終了の鐘がなった。司会者は鐘の担当者に時間延長を命じた。「"お客様、何を差し上げましょうか。" "何か食べるものを下さい。それから、泊めてくれませんか。" "お安いご用です。お金さえいただけば。" "金は持っています"」というようなヒントだったので、会場のほとんどの者は分ったようだった。解答者は口を歪めながら、真っすぐにならない首を起こすようにして答えた。「ダン・ダルダン。」厳しい司会者は、その不自由な発声によってなされた答えを正解と認めなかった。「"なぜですか。私が金を払わないと思ってですか。それとも、前勘定で払えというのですか。私は金は持っていますよ。" …」ユーゴーの名が出ても、彼はもう答えようとせず、汗で黄色くなっているシャツをわれわれの方に向けて、頭を下げたままだった——
(注 3)
引用時の注
  1. 手軽な録音装置のなかった時代である。
  2. なげけとて月やはものを思はする かこち顔なる我がなみだかな
  3. われわれはなぜ、「彼はジャン・バルジャンと答えたぞ。正解と認めろ!」と司会者に抗議しなかったのか、不思議だ。

2013年2月14日木曜日

記憶の再生過程


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月11 日(水)曇り

 見事、山あたれり! 当座預金、商業手形、金利政策、みんなすらすら書けた。どこかでトンチンカンなことを書いてはいるのだろうがネ。
 記憶の再生過程は、こういうものだ。——「金利政策を決定するのはどこか」への答を書くのに、通過審議会(なんだか物足りないな…)、通貨発行審議会(まだ物足りないぞ。ピンとこないぞ。ええと、上に何とかいう字がつかなければならない)、日銀通貨発行審議会(あっ! そうだった。通過発行審議会とは各界の代表から成っていて、日銀券の発行高を決定するのだった。では日銀何とかだ…)、日銀政策委員会(これでよい。絶対正しいぞ)。——事実、これで正しかった。試験のときのぼくは、大抵こんな具合だ。

 Jack の家はあんなところに移ったんだね。ぼくにとっても、近くて都合がよい(坂を登らなくてもよいだけ、苦労しなくてもよいしね)。もし、Jack さえ邪魔でなければ、今後はたびたび利用させて貰いたいと思う。
 Jack の親友たちの筆跡の中に、ぼくのものが全くなかったから、便りを送ろうと思ったけれども、新しい住所を聞き忘れた。それでここに、彼への言葉を書く。
 「ぼくは多くの有益な新しいものを得た。Ted に君の家を教わって、本当によかった。何と書けばよいかな。とにかく、ありがとう。」

勝つことを目的としない


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 11 日(水)雨のち曇り(つづき)

 追いついて来た Lotus は、国語甲を除く全科目の通知簿の点を見て来たといった。Jack が「生物は?」と尋ねると、Lotus は「9、9、9 に 8 が一つあったかな」といって、さらに続けた。「生物の試験は、わしらのレッスンで、ぼくが一番だったからな。」これをいうときの彼の口調は、誇らしさに謙遜をそえたものだった。それから彼は、習字と体操の点をいい、素点についての次のような解釈を述べた(ぼくは疑問に思う)。「自分の能力に応じて、いかに努力したかを表してあるのだ」と。この解釈によれば、彼の習字の点は、能力だけが十二分にあることを示しているようだ。

 Jack の家からの帰途、過去に持った九回の夏休みを想起させる色合いのみなぎる医大グランドに、Octo が彼の町内のいろいろな年齢の子どもたちといるのを見た。彼らは、ぼくがしたい唯一のスポーツをしていた。野球といえば、石引小時代に松枝小の大根投手と張り合った名選手は不遇である。わが校のクラブは勝つことを目的としないのだから
(注 1)。先に臼杵高校のことを書いたので、ことさらに彼の姿が目に浮かぶ。きょうの放課後も、彼は、編集室横のテニスコート脇で、乾ききっていない土を左足で蹴上げるようにしながら、ひとり捕手を相手にピッチングをしていた——。

 ラジオの音は、いつどこで、どんな気持で聞いても、環境にも心にも調和するように思える。母がまだ帰宅していなくて、横隔膜の下がぐうぐういっているいまでも——。

引用時の注
  1. ここに書いた名選手 UW 君は、小学校時代には大根投手に勝るとも劣らない剛球投手だったが(松枝小との対戦成績は 2 勝 2 敗)、肩を壊したのか、中学時代からは一塁手として活躍した。それで、このあとに書いてあるように、高校時代にもピッチングしている姿を見たということは、すっかり忘れていた。投手に復帰できないかと、痛めた肩の調子を見ていたのだろうか。「勝つことを目的としない」わが校の野球部だったが、この翌年、われわれが 2 年生の秋には、大根投手を擁する金沢桜丘高校と北信越大会決勝戦で対決し、惜敗はしたが、準優勝する活躍をした。

「あらゆることをトーナメント式に…」


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 11 日(水)雨のち曇り(つづき)

 放課後 Jack と、六部通り出来た体育館から少し離れた後ろにある小室「保健指導部室」の朝倉先生のところへ、生物の試験の結果を聞きに行き、長い説教をされてしまった。尋ねようとしたことに答えて貰えたのではなくて、知らされたのは、ここでも通知簿につける素点だった。ぼくはそれほど芳しくなかった。説教の内容は、「あらゆることをトーナメント式にまとめよ」だった。先生は、八チームによる二回戦までのトーナメント戦の図に相当する線を描かれたが、二回戦の第一試合の二番目のチームが第二試合の一番目のチームを兼ねる図になった。それをあわてて描き直して、またぞろ(紫中の校長先生がよく使われた言葉だ)長い話を始められたとき、部屋の窓から Vicky の下校する姿が見えた。説教を受けているわれわれは、何だか恥ずかしい思いをした。

 Jack と一緒に下校し、家に鞄を置くとすぐに、原稿用紙を買うため、また出かけた。すると、宏を主人公とする原稿用紙百枚ぐらいの小説を昨年の夏休みに書いた友
(注 1)に追いつかれた。(つづく)
引用時の注
  1. Lotus こと KZ 君。彼の小説の主人公の名前が「宏」だったことは、その後すっかり忘れていたが、私が翌年書いた小説「夏空に輝く星」のヒロインの名は、偶然にも、同じ字を使った「宏子」だった。KZ 君は高校 2 年のときに東京へ転校したが、わが校の生徒会誌に載った「夏空に輝く星」を読んでいて、大学生になってから金沢へ来た折に、「やられた! と思った」とほめてくれた。私の文学趣味は彼の影響に負うところが大きい。

2013年2月13日水曜日

「臼杵」を「ちゃうす」と


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 11 日(水)雨のち曇り

 竹谷先生は昨夜、いや、けさの五時までかかって出した、通知簿につけるための十点満点の「素点」の話をされ、それが、授業を進める時間の倍の長さも続いた。10 は各コースとも 0 人。9 は D コース 1 人、E コース 2 人、F コース 4 人。 3 以下は各コースとも 0 人。要注意者の 4 は…、などなど。先生は初めに「だから、いまは目があかない」といわれたが、疲れた様子もなく、統計の発表に余念がない。オタケは、「ちゃんと、目あいとるがいや」と、つぶやいた。ぼくも、誰にも聞こえないようにつぶやいてみた。「表を作って来て発表しろ。」
 一限の体操のときは、まだ雨が止んでいなかったので、教室で水泳の講義があった。Char は『運動競技の解説』の p. 16 を読まされ、プラトンをプラントと読んだ。「いわゆる先生」が、『のらくろ』のブル連隊長の子どものような口をして、「いわゆる」を連発しながら話を進められたことに変わりはなかったが、「臼杵の山内流」を「ちゃうすの山内流」に決め込んでおられた。東九州代表の臼杵高校というのが、昭和二十四年の夏、甲子園で北陸代表の武生高校を 6X–2 で軽くあしらった試合の放送を聞いたので、ぼくはその正しい読み方を知っている。(しかし臼杵高校は、優勝した湘南高校に 2X–1 で破れた松本市高校に、同じく 2X–1 で破れてしまっている
(注 1)。)(つづく)
引用時の注
  1. 昭和二十四年は、1949 年であり、この日記の 2 年前になる。ここに記されているスコアは、甲子園大会の記録をまとめた新聞記事の切り抜きを見て書いたのだろう。当時、6X–2 は 6A–2 のように書く習わしだったが、ここでは今風に書き換えた。ちなみに、その年の優勝校・湘南の宝生遊撃手は、大連でわが家の比較的近くに住み、大連三中の遊撃手をしていた人だった。新聞で名前を見て、そうらしいと思っていたのだが、後に私の勤務先の事務部に大連三中出身という人がいて、確認出来た。その人は宝生氏の同級生で、「あいつは運のいい奴だ」といっていた。

試験第一日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 10 日(火)曇り

 うーん! これは骨だぞ! なかなか大したものだ。問題の傾向だけを書こう。一、(一節の文を示して)この文はどういうことをいっているか。二、(一節の文の『』の間を)分りやすい言葉に直せ。三、次の片仮名の部分を漢字に直せ。四、自分の言語生活で反省しなければならない点を記せ。五、(二十行近くにわたる文の)大意を百字以内にまとめよ。以上である。三、四番はどうにかなるとしても、その他の問題は、一応も二応も慎重に考える必要がある。精一杯ねばることにした。五番目の問題に予想以上の時間をかけたため、提出したのは四十一人中三十八番目だった。
 第二限の生物は、うんざり! (1) 不可欠の元素十種を挙げ、どんな状態で吸収されるか記せ。… (5) 次の左と右で相似器官は一本線で、相同器官は二重線で結べ。etc. でも、案外早く済んだ。今度は五、六番目ぐらいに出した。さっさと家に帰る。
 感想? そうだね。まあ、これが普通の出来だろう。No mistake ということはありますまい。

 せっかく早く帰って来たけれども、するべき何ものもない。夏休みのプランでもと思うが、いかにすべきか分らない。明日の社会の考査のために、暗記やつめこみもしなければならない。だが、この蒸し暑さでは、何も出来そうにない。

2013年2月12日火曜日

『復活』主人公の変化


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 10 日(火)曇り

 四十分授業の時期となる。国語甲の試験の批評がある。九十点台に達しないのは、坪内の背番号だけ不足するぼくを始め、全員である。Vicky の点を開平すると中谷の背番号になる。彼女はどんな顔をしていたか知らない。国語甲も乙も、丁寧過ぎるほどに書かないと、完全な点が与えられないのだと分った。
 放課後、校内球技大会の排球が行なわれる。五つのコートの縁に、昨日ときょうの暑さで一度に灰色がかってしまったぼくのシャツの袖より、はるかに鮮やかな白の線が引かれていた。試合はやはり mixed だ。応援しなくても、わがホームの実力が、相手の実力プラス応援によって奮い起こされる余分の力を上回れば、勝ってくれるだろう。

 昨日のまとまりのない考えに関係のあることが、偶然にも、『復活』の中に出て来た。次のように書いてあるのだ。「あの時分は彼は、自分の精神的存在を真の自我と考えていたが、今では、自分の健康な、大胆な、動物的自我を、自分の本体と考えていた。」この、彼自身には分らないが、彼にとって悲惨な変化を生じさせたのは、「ただ彼が自分を信ずることを止めて、他人を信じ始めたからであった」と。認めることと信じること、あるいは承認と信頼、を頭の中で混同させていたようだ。
(注 1)

 ホームルーム時、夏休み中に海水浴に行く場所を決める。アドバイザーは、ぼくの気持を知るかのように、ホームルーム委員に代って司会をして下さった(実は時間があまりなかったからだが)ので、助かった。そういうことを決める必要を感じたことのないぼくだから、どんなへまをやらないとも限らなかった。

引用時の注
  1. 60 余年も前のことであり、このとき何を考えていたのか正確には思い出せないが、おおよそ次のようなことだろうか。たとえば、自分以外にも優れた同級生がいることを「認め」なければならない、という表現で考えるのは、『復活』の主人公ネフリュードフが「自分を信じていた」のに似て、自己中心的な見方である(前日の日記の前半に「これを認め…」という表現があった。そこに「認め」の語のある理由が不明だったので、最初の掲載時にこれを削除したが、この日の日記の「認めること」を見て、ここにつながる意味があったと気づき、それを復活させた)。ネフリュードフが「他人を信じ始めた」ように、そこから脱皮して、自分以外にも「信頼」性の高い、すなわち、優れた同級生は当然存在するのだ、という客観的な見方をすべきだ。——ただし、ネフリュードフにとって、ここに記されている変化は、文中にもあるように、悲惨な結果をもたらしたものであり、自らに同様な変化を求めるのは奇妙とも思えるが…。

普段の力か最後の五分間か


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 9 日(月)雨

 社会は、文句なしに自習。生物は、1/3 を夏休みの宿題についての話にあてて、あとは自習。ホームの時間は十二日か十三日に行なわれる水泳大会の選手を決めることになっていたが、候補者が一人もいないので、棄権することにして、あとは、ホームルーム・アドバイザーの、夏休みの暮らし方についての話。英語は、夏休みの宿題の材料が与えられてのち、自習。商業の半分が授業で、あとは帰宅。満足な授業があったのは、進度が遅れているからという理由で行なった保健体育だけ。——一方では、試験のまぎわになって一生懸命に勉強してもだめだ、普段の力が大切だ、といい、他方では、最後の五分間、といって猛烈に頑張っている
(注 1)。——
引用時の注
  1. これは、周囲の状況を述べたのか、あるいは、Sam 自身の矛盾する心境を述べたのか。私の学校の一学期末試験は前週の木曜日で終わったが、Sam の学校では、この翌日からだったのである。

2013年2月11日月曜日

祖父転勤時の送別サイン帳


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 9 日(月)薄曇り(つづき)

 鞄を置いただけで、まだ腰を落ち着けないうちに、行李から書類や手紙を出して整理していた祖父が、何とかいって、一冊のノートを見せ始めた。祖父が広島高等師範学校から満州へ転勤したときの送別サイン帳だ。サイン帳はいつ誰が見ても、何らかの力強いメッセージを受け取れるもののようだ。
 数学の先生のサインには、π= 3.14159265358979... (ここまでなら覚えているが、この三倍ほど書いてあった)とあるし、英語の先生は英語で書いてあった。三角形の下に半円形をくっつけた図を描いたのもあった。それは、祖父の説明によると、人には丸いところも尖ったところも必要だということを表したものだそうだ。どれもが、光るような黒さの墨で書いてある。
 クレオンを二本並べて引いたような太さと鉛筆より細い線とを巧みに混ぜて、力の溢れている感じを出した「誠」一字のがあるかと思えば、長ったらしい歌の文句もある。祖父は高価な書籍よりも、このよれよれのノートを大切にかかえて引き揚げて来たのだ。余白は祖父の引き揚げ直後の日記に使われている。このノートの働きぶりは、Sam の日記帳からわれわれの通信帳の一冊になった「自由日記」にまさる。

 母が毎週の『週刊朝日』を学校から借りて来るので見ているが、毎号決まって読むのは Blondie の漫画
(注 1)だけだ。Blondie は初めに下の英文を読む。意味が取れないと、繰り返して読む。そうすると、いくらか意味が感じ取れて(注 2)来る。いつ見ても、Blondie はしっかりとして、しゃぁしゃぁとして、愛情たっぷりであり、Dagwood は間が抜けて気の毒な役ばかり演じているが、このことが彼らを、いかにも親しみある存在にしている。
引用時の注
  1. 『ウィキペディア』の「ブロンディ (漫画)」のページによれば、この漫画が『週刊朝日』に連載されたのは 1946 年から 1956 年だというから、このとき、ちょうど連載の半ばだったのである。
  2. ここで、「なければならないかもしれないノートブック」と題した 6 冊目の交換日記帳(前表紙に「二号 A列5 正四十枚 定価八円十銭 北陸紙製品工業株式会社製」と印刷した厚紙が貼ってあるが、このノート自体のものかどうか分らない。後ろ表紙には別種の、廃物利用した厚紙が貼ってあり、両表紙を合わせて、わら半紙でカバーしてある)が終りとなり、以下、"It is imperfect. But ..." と題した 8 冊目に続けて書いている。これは、敗戦直後に入手した、まことに粗末な品質の、無罫・ざら紙のノートで、製作会社の表示もない。これらのノートは私が提供し、題名も私がつけた。(7 冊目は、このとき Sam の手もとにあった、 Sam 提供の無題のノートで、なおしばらく使われる。)

溺れた者の救助法を習う


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 9 日(月)薄曇り

 国語乙の先生の話は、「彦星と棚機津女(たなばたつめ)と今宵逢ふ天の川門(あまのかわと)に波立つなゆめ」の歌から始まって、「盂蘭盆」、「はやりにて撫子(なでしこ)飾る正月に」等々、尽きない。これは面白く聞いていたのだが、あとの試験の点数発表が全然気に入らない。

 『大地—分裂せる家—』の王淵(ワン・ユアン)のように、二つの選択の間をさまよう。さまよっていても、行き着くところは「何ものをも恐れることのない」ところでなければ、われわれは険しい山の途中で、麓へも下りられず、頂上の友の足元へたどり着くことも出来ない落伍者となるのだ。淵は、行き着くところへ通じる道を美齢(メイリン)と手を取り合って、はっきりと見ることが出来た。行き先を見分けるのは、決して一度だけでよいのではない。

 伝聞や記憶の間違いは多い。Jack がいってくれたオールスター戦のことに、間違いが沢山あるのに驚く。五割でなくて、四割四分四厘だし、最終回でなく八回だし、木塚は飯島だ。しかし、Vicky は多くのことを確実に把握している。肺胞の説明をすらすらとやってのけた。手を挙げたのは彼女一人だった。これを認め…。話が元へ戻りそうだ。やめておこう。

 体操の時間、夏休みに行なわれる大会(日米対抗陸上、何とかのバレーボール、何とかのハンドボール)の宣伝や、夏のスポーツ(水泳、登山)に必要な常識的訓話がある。溺れた者の救助法の説明は愉快だった。
「バタバタやっとる間はそばへ寄ってはいかん。死ぬちょっと前に行って、あごに手をかけて引っさげて来る。ちょっと静かになったと思うて、はよ行ったらダメや。死んだふりしとったがが、ヤーと力一杯しがみついて来たらどうも出来ん。油断ならんもんや。」
これが、その要約である。先生が水を吐き出させる手本を示すために「溺死しかけの者」にさせられた、背が低くて女子のような顔の、しかし、きりりとしている友は、先ほど食べたばかりのものを吐き出しそうで、かわいそうだった。(つづく)

2013年2月10日日曜日

終日、男の子の遊び相手


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 8 日(日)雨

 天気さえよければ海(おっと、失礼、失礼)に行くのだったが、そこへ行かなくても、潤いを与えてくれる日になってしまった。朝から思い切りカジろうと思ったが、ダメ。一日を勳君(Ted が金曜日に来たときにいた男の子)とムタムタと遊び送ってしまった。腕相撲、指相撲、三角取り、鉛筆をころがしてする野球ゲーム、ビー玉など、家の中で出来るものを片っ端からする。応分な力を出して、相手を熱狂させ、喜ばせてやることが第一だ。愉快に遊んでやった。

 Ted はすばらしい芸術家だが、作曲に興味があるかい。あるね。よろしい。「あなたの作曲した歌」の時間の詞を紹介しよう。〆切りは七月十八日だから、それまでにゆっくり作曲したまえ。
(注 1)
引用時の注
  1. Sam は勝手に私が作曲に興味があることにして、NHK ラジオ番組「あなたの作曲した歌」の課題詞「夏の日暮れ」(岩佐東一郎作)を別紙に書いて挿入してくれたが、私は応募はしなかった。

オールスター戦、教科書の未習問題を勘で


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 8 日(日)雨

 Tom はかっきりに来た。約束は実行されないものと思って、百メートルほど Jack の家へ行きかけたところで出会い、わが部屋へ戻ったのは、ちょうど「のど自慢」が終わった時刻だった。Tom は、subject と predicate、形容詞と副詞がどうやら分るようになった。
 Tom に『トム・ソーヤーの冒険』(岩波文庫版)を貸す。Tom は Tom から何を学ぶだろうか。彼に尋ねたいことがあり、あるものを見せると、彼は他のところに気を留めてしまった。三時過ぎ、ぼくはどうしても Jack に会いたいと思ったので、Tom を大学病院の門前まで送った。彼の兄さんが入院しているのだった。雨の中を、下駄をぬるぬるさせて歩く間中、彼は気を留めたことについて質問するので、うるさくてたまらなかった。

 Jack は待っていてくれた。出て来るや否や、顔の半分を口にして、「パシフィック、勝ったぞ」という
(注 1)。接戦の末、最終回、飯田のホーマーで四対三。第三戦でかろうじて一勝したとのことだ。順ちゃん(注 2)はすばらしいじゃないか。この試合には、パシフィック三本のホームラン中の一本を叩いて、三試合の打率五割、首位打者賞と残念賞を獲得した。
 Jack の部屋の入り口で、脇に敷かれていた布団の上へ帽子を投げ出して、びっくりした。小父さんが、その布団の中で雨の日曜を楽しんでおられたのだ。下手をすれば、厚くて固い鍔(つば)で頭を打撃して、お楽しみをぶち壊すところだった。帰る頃には小母さんも薄暗い隣の部屋の畳の上で横になっておられた。

 Jack に『大地』を返し、『復活』を示した。彼はぼくのこんな英断をしばしば見ているから、先日は難しいといったその本を夏休みの宿題の共同研究の対象にすることについて、何もいわなかった。
 彼のノートに分数方程式を解いてみて、ぼくが昨日間違いをしていたのを発見する。どうしても出来ないのが一つある。(翌日の注記:印刷の間違いと分った。)
 方程式の応用である次のような問題に勘で答えを出す競争をした。
  適当な数字を—の所に入れて、縦横の計が 34 になるようにせよ。
  —979
  79—9
  9—99
  999—
タイムは測らなかったが、五秒ほどで出来た
*。ぼくが一秒ほど速かった。教科書 82 ページの 10 番も勘でやってみる。ぼくが、答えだけならば得られた。こんなことでは原始的だと、教科書を閉じてしまった。

 かなりの日々に無駄な時間を持った。何のことだと聞かれると、自分に聞かせることも出来ない。それほどでもないかも知れないが、どうも不満足な出来栄えだったと思わずにいられない。
Sam による欄外注記
 * 確かに五秒ほどだ。最初にどういうことに注意するかが分れば、あとは「いもづる式」だね。
引用時の注
  1. 日本のプロ野球が 2 リーグ制になって 2 年目のこの年、セントラル・リーグとパシフィック・リーグの各選抜チームによる対抗試合、オールスターゲームの第一回が開催された。
  2. この頃、阪急ブレーブスの三塁手だった中谷順次選手。後に中谷演男、中谷準志の登録名でもプレーした。私は阪急ファンだったので、彼の活躍が嬉しかった。Jack は当時、東急フライヤーズ(現・北海道日本ハムファイターズ)のファンで、この日、同じくパ・リーグの勝利を喜んだのである。

2013年2月8日金曜日

国語教科書のユーモア


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 5 日(木)曇り

 辰野 いったい材料はどこにあるんです、いちばんあるのは。
 仁科 カナダですね。
 辰野 はるかかなたですか。やれやれ(笑い)。
 仁科 それからアフリカのコンゴー、ロシアにもあるでしょう。
 辰野 金剛石を持っているよりもいいわけですね。日本にはございませんか。
 仁科 ありませんね。あっても問題になりませんね。
 辰野 海底はどうでしょう。ありませんか。
 仁科 かいてい、ああ、海の底ですか。…

 ぼくが速記したのじゃないよ。『新国語 ことばの生活 一』の「科学を語る」の一部分である。読んでどう思うかい。べつにこんな駄洒落ばかりあるのではない。何についていっているかも分るだろう
*。ところどころにこんなユーモアが現れている。

 ブランクの時間には、外出証明書を貰って外出した。みんなが学校で授業を受けているとき、こうしてぶらりと外出するのは怖いような気もする。何のためにこんなことをしたかは、書かないことにする。

Ted による欄外注記
 * Uranium だろう?

信じられなかった休講


高校(1 年生)時代の交換日記から
Sam: 1951 年 7 月 4 日(水)晴れ

 木南金太郎博士(前回の講義でこう自称していた)が出張のため、バレーボールの円陣パスをする。ミスした場合は「運動場を一周」という規定を設けた。僕は一周で済んだが、多いものは五、六周しただろう。

 商業は休講になったが、そのいきさつが面白い。二年生が「休講、休講」といって来たが、また例のようにうそをついているのだろうと思っていると、Funny までもが「休講、休講」といって入って来る。おかしいなと、心の中で思った。なぜならば、先生はけさのホームの時間にはおられたし、午後はいないという話もなかったからだ。まず不審がったのは、Keti とぼくである。Funny が盛んに「帰ろう、帰ろう」といい出す。オールスター戦を一刻も早く聞きたいのであろう。でも、Keti とぼくが動こうとしないので、Funny は「賭けしよう」といい出した。こうまでいわれると、信じないわけにはいかない。しかし、合点がいかないので、Keti と Funny の間で「映画 5 回」というとてつもない賭けが成立した。
 まず、第一教官室へ行ったが、椅子はもぬけの殻。一、二の先生方に聞いてみたが、分らないといわれる。Funny はもどかしくなって、帰ってしまった。仕方なく、Keti とぼくはもう一度教室まで行くことにした。行ってみると、隣の松本先生が、「君たちは中島先生の授業を受けとるのか。来てみると誰もおらんので、びっくりしとったところじゃ。きょうは休講されるそうじゃ」といわれる。あとから誰か来るといけないというので、先生のいいつけで、「きょうの時間番号 7 の授業は中止(事実なら)」と書いて来た。

 それから図書館へ行って、『社会主義とは何か』という本を借りる。これは、この前の商業のテストがおもわしくなかったから、レポートの提出によって成績をよくする(先生がそうすることを認めている)ために借りたのである。

2013年2月6日水曜日

執行委:会計辞任や学校側との対立問題


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 7 日(土)晴れ

 七夕の日だね。登校する道々、一刻として笹の葉にぶら下がっている色のついた紙を見ないわけにはいかなかった。やはり、機械で作ったものより、そうでないものの方に心が引かれる。

 ブランクの時間は、
 x = (1/2)[−1 + i√(23)] のとき、次式の値を求めよ。
 (x − 3)(x − 1)(x + 2)(x + 4) − 104
の問題を考えていたら、終わってしまった。解析の試験の後、夏休みの宿題として「番外」のプリントが配られた。

 弁当を持って行かなかったのに、執行委員会がある。出席人員十名。最低人員で流会を免れる。まず、生徒会長の今学期の反省があって後、会計の辞任問題。「とかく執行部というものは議会に比べて地味であり、小言ばかり頂戴するところである。私は先の生徒会予算案作成に関して最大の努力を尽くしたつもりであるが、野球部が三万円も削られるというふがいなさを演じ、責任を感じている。せめて十月頃まで務めようと思ったが(執行委員の任期は一ヵ年)、大学受験の悲願をたてたことでもあり、現在の私としては、受験勉強と生徒会の仕事を両立させることが出来ない。夏休みは最も勉強に身を入れなければならない時期で、この時に遅れると、もう取り返しがつかない。そこで、私はこのポストを他の人にゆずりたい。でも、生徒会のための力添えはしたいと思う。」会計はあらましこのようなことを述べて、一二の質疑応答があり、採決。満場一致で辞任を認めた。
 引き続き「水泳部に関する生徒会と学校側の対立問題」の議題に入る。関係者から、次のような説明がある。水泳部ではモーターポンプが破損していたので、これを修理したが、予算に見積もった以上の莫大な金がかかった。それで、プールは体操の時間にも使用するものであり、学校の所有物でもあるからと、学校側にも費用の一部を負担するよう申し出たが、「プールの管理は水泳部に一任してある」などといって、一文も出してくれない。そのくせ、プールの水が汚れていると、衛生上悪いから取りかえろとか、水を抜いておくと、防火上早く水を満たせとか、とてもやかましい、…など。これらの事実は、われわれを完全に憤らせ、さっそく委員を任命して、学校側に抗議することに一決。
 書記から、新しく生徒会の謄写用具を購入して欲しいという意見が出され、これは財政委員会で協議することになった。その他二三の意見が出て、閉会。午後二時、ペコペコの腹をかかえて家に帰る。

 さーて、困ったな。時間を逆戻りさせなければならないのだが、記憶力は確かでないからなあ。まあいいや。思い出したのから。
(注 1)
引用時の注
  1. 7 月 4、5 日の日記が抜けていたので、このあと、律儀にこれらの日々の分を思い出して書いている。

2013年2月5日火曜日

七夕


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 7 日(土)晴れ(つづき)

 こんなのが果断さかな? 一つには、Jack の家へ行かなかった。もう一つは、Jack が難しいといった杜翁の『復活』を、夏休みの国語甲の宿題の研究対象に内定したこと。共同研究者の Jack は何というか分らない。

 予期は適中する。紫中の前で Tom に出会った。彼は大学前の方から来たので、どこへ寄ったのかと思ったところ、AR 君にアコーディオンを習いに行っていたといった。くぐるようには出来ていないが、くぐるとよくいうものを通り、校舎内で Becky にひと目おめにかかった。それから、Tom が大学病院に誰かを見舞うというので、ぼくの帰る方向へ一緒に歩いた。別れるときの Tom は、心なしか平素より元気がないようだった。

 天徳院の境内を通ると、石けんをたくさんつけた手を水に浸したときの音のようなセミの声がした。子どものいる家々の前には、笹が立てられ、色紙による作り物や、「天の川」「七夕祭」の字などが、あるいは暑く、あるいは涼しく下がっている。

 九時前だが、星はまだ出ない。街灯の下で影とともに飛び回っている幼女の声が、妙なほどよく響く。

2013年2月4日月曜日

満点や、おまけやゾ


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 7 日(土)晴れ

 Jack が毎朝誘ってくれる。仕方なく早く学校へ行くと、Tacker(SNT 君)はもう来ている。三人で校内膝栗毛をしたが、得ることはなかった。「青いリボン」(「青色のリボン」が原題だったが、ぼくが『紫錦』に掲載するときに、間違ってこの題にしたのだと誰かがいっていた)の作者
(注 1)と、大連でぼくと同じ小学校にいた(けれども、時を同じくしてはいない)Massy とに出くわして、編集室前で始業少し前まで話し合った。女子師範付中を経て来た Massy は勤勉で口達者だ。雪の急斜面のような鼻を持っていて、額が広く、後頭部も大きい。科学や哲学の本ばかり読むような顔をしていながら、実直な少年ならばいいそうもないことを、完全に自分のものとしている多くの熟語を用いていってのける。Lotus にいわせれば、「早熟」だ(注 2)。そうしているところへ、Kies(TKR 君をこう呼ぼう)も来て、昨日われわれが Jack の家でいかに笑ったかの話に花を咲かせる。

 ヨウコ先生のところへ解析の点を聞きに行くと、「満点取れなんだがいねェ。」これは Jack に、である。ぼくには、「満点や、おまけやゾ」。ぼくが、「√(12) やろ」と、気づいていたことをいうと、先生は、「√8 も
(注 3)」といわれた。ぼくは、「え? なんしとったがやろナ?!」と、自分のウカツさに恥じ入る。Jack が昨日の夕方、紫中の竹本先生(Turkey)に出会って、その先輩だと聞かされた先生は、一家の名前がみな海に関係している漫画の主人公のような口をして笑われた。この休憩時間の後が解析である。わがレッスン・クラスの平均点は 67 で、他のレッスンと比べて最もよいでしょう、とのことだった。試験解答の説明があった間、Vicky は唇を突き出して、いささか顔色がよくないようだった。しかし、次の生物の時間には、形勢逆転して、ぼくが二限の Vicky のような顔をしなければならなかった。

 クラブ活動の時間、高文連新聞部書記長を本校新聞部から出すことになり、その選出をしたのだが、なかなかゴタついた。Gamma(IN 君)はいちいち、「異議ございませんか」といいながら、候補者を推せんするところまで漕ぎ着けたが、二年生一人を交えた数名の候補者が上がったとき、Deck(KD 君)が切り口上で三年生の立場を述べ、合わせて辞退しようとして、問題となった。「一身上の都合」や「大学受験」が理由になるだろうかということだ。三年生候補者の辞退を承認するかどうかの採決が行なわれ、ぼくも味方した不承認が 11 対 7 で勝った。しかし、三年生対二年生の一部と伊藤先生(他は傍観的)の論争は続いた。そこへ、卒業生で、もと新聞クラブの MTY 君とかいう人が来たので、Gamma は彼に助言を求めた。MTY 君は「三年生の立場に同情を乞う」という意見だった。皆が面倒に思い始めたところで、白紙に返して推せんをやり直してはと、Gamma がいった。異議はなく、そういう運びとなり、決選投票にもつれ込んだりした結果、ぼくも一票を投じた Eleck(YS 君、三年生)が当選した。
引用時の注
  1. Lotus こと KZ 君。
  2. Massy こと SNN 君は、中国から引き揚げて来た関係で、われわれより一歳年長だったと、のちに知った。
  3. √(12) は 2√3、√8 は 2√2 と書き直しておくべきだったのだ。

ゴンベン・コレクション


高校(1 年生)時代の交換日記から

Sam: 1951 年 7 月 6 日(金)雨のち晴れ

 ぼくは、いつでも、どんなときでも、「何とかなる」で済ましていて、後で残念がったり、不十分だったのを仕方ないとあきらめたりしている。一斉テストの日が迫っているというのに、ラジオの番組にはどうしても耳をそばだてるし、Ted の厖大な通信文も消化したいと思う。「そうですか」、「それもよいだろう」。いかにもあいまいな言葉。放送劇の登場人物がこんな言葉で特徴づけられていた。いつまで聞いていたって仕方がない。次は「俗曲の時間」だから、思いきってスイッチを切ろう。

 学校の方は、英語のテスト以外、大したことはなかった。そうそう、アセンブリーがあったが、きょうは聴講(?)しなかった。サボったのでないことは、いうまでもなかろう。「盗難の恐れあり」と、各ホームで二名、アセンブリーの時間に当番が残ることになったのである。きょうは、ぼくと Keti(ケチンボという意味に聞こえるかもしれないが、そうではない。「慶一郎」がつづまってこう呼ばれるようになったもの)委員長と二人で残る。誰々から順番という想定はない。絹中教官の時事解説という予定だったので、またやかましくてロクに分りもしないだろうと思っていた矢先、Keti からホームに残らないかといわれ、そうしたのだ。

 こんなときには、礼儀として教室の掃除をするのが習慣に近いものになっているが、ぼくは衛生室の掃除に当たっていたし、Keti も絶対反対だから、しないことにした。それで、二人で「ゴンベン・コレクション」をする。Neg、Funny、それにぼくが同じクラスだった頃よくやっていたものだが、ぼくがちょっと新しそうな名で呼んでみただけである。Keti から始める。「語」と来た。ぼくが「話」を続ける。「談」「講」「討」「論」「諭」と続く。ぼくが「説」と書いてから、ハタと後が続かなくなってしまった。Keti が「やめる」といい出したが、「まだまだあるだろう」といって、続けさせた。「見」や「莫」をつくりにした新造漢字が出たりするかと思えば、「誰」「計」などという字がずっと後になってやっと出て来た。連想の働きは、こんなとき巧みに現れる。例えば、「訴」と書けば、「訟」と来るし、「諷」と書けば「諧」と来る。時間が終わったとき合計したら、58 あった。

 こうやってカジッている
(注 1)耳に、ロータリーのところで行なわれている盆踊りの「金沢音頭」や「炭坑節」の騒音が入ってくる*。夜だから、遠くまで伝わるのだろう。でもいまのぼくは、見に行きたくもないし、見に行かれもしない。
Ted による欄外注記
 * これといい、七日の色紙のことといい、ぼくの書いたのと偶然にも全く同じ。次ページと六ページ後にもそういうところがある(注 2)。
引用時の注
  1. 勉強している、の意。
  2. 7 月 7 日の「大学受験」の言葉と、10 日の「ないないづくし」のような文。ノートを交換してこのことに気づいたのは 11 日だった。

2013年2月3日日曜日

出会いの多かった日


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 6 日(金)曇りのち晴れ(つづき)

 雲の流されてしまった背後の空から伸びている日光に押されるようにして、一度家へ帰り、今度は日光をかき分けるようにして Sam の家へ向う。大学前・紫中間で、三十分ほど前に丁寧な「さようなら」をいって貰った Lotus にまた出会った。白ずくめの服装(帽子だけは黒だが)で自転車に乗っていて、肩をちょっとすぼめて、車を止めた。Sam の名をいわないで住所で質問に応じたら、「勉強か」といって
(注 1)、去って行った。
 Sam の家庭教師仕事も大変だね。君の生徒に少しの時間だけ待たせて、済まなかった。
 映画館の群落入り口の少し手前で、庭球から帰る Funny に会う。「Sam」と答えると、「健在やったか」と再質問された。福音館の前で、警察所長の令息 T・YS 君と二度目の行き会いをした。彼とは七尾で(不思議だろう)親友の域に達して、互いの家へ遊びに行き来したものだが、紫中で再会してみると、彼も会話不活発者になったようで、親友関係の復帰はなかった
(注 2)。きょう会っても、互いに笑顔を作るばかりである。

 出会いの多かった日も暮れた。定時制の生徒たちが話し声と足音を道に満たして帰って行く時刻も過ぎた。近くの寺の境内か広場から、♪月が出た出た…♪ の歌が聞こえていたが、それが終わると、マイクが「今度は金沢音頭」とかいった。手や脚を振って踊り回っている男女の姿が目に浮かぶような音楽が続いている…。
引用時の注
  1. 期末試験の終わった翌日だが、Sam と私を合わせると、「勉強」を連想させたらしい。
  2. 中学校の一学年は 8 クラスもあって、彼とはクラスが一緒にならなかったということも、親友関係が復活しなかった理由である。

2013年2月2日土曜日

Jack の転居先で


高校(1 年生)時代の交換日記から

Ted: 1951 年 7 月 6 日(金)晴れ(つづき)

 われわれ四人(Jack、Lotus、TKR 君、ぼく)は、誰かが『坊ちゃん』に出てくる「狸」のようだといった紫中の先生に追いつかれ、声をかけられた。下地先生ともあろう人でも、われわれ同士が出会ったときにするのと違わない質問をされる。われわれは「本屋です」と答えた。そして、われわれがなぜこの時間にここを歩いていることが出来るかを説明した。Lotus は、漢文がどうだこうだと話した。試験は出来たかと問われた Jack は、「なんも出来なんだ」と答えた。
 われわれは Jack の新しい家に来た。玄関の天井を見て、父の生まれた田舎の家を思い浮かべた。がらんとして高いのだ。TKR 君が真っ先に、続いて Lotus が小母さんに「お邪魔します」といって、そして、しんがりにぼくが入った。新しいが質素な家で、前の家より明るいのがよい。話が出て、パンが出る。笑いも出た。
 Lotus「MRT 君との約束を破ってしまった。」
 Jack「コンペ?」
(注 1)
 Lotus「うん。」
 TKR 君「そして、わしの約束も!」いまだとばかりに、TKR 君は彼の憤りを発表した。
 Lotus「君と約束したかいヤ? いつ?」
 TKR 君「木曜日の英語の試験のとき。」昨日のことを木曜日だって。
 Lotus「いつ会う約束だった?」
 TKR 君「金曜日。」
 Lotus「なん時?」
 TKR 君「午後。」
 Lotus「で、君、金曜日に来なかったじゃないか!」
 試験が済んだらすべてが済んだような気がしてならないと洩らした Lotus は、きょうを日曜日だと思っている。「金曜日」に、彼は二つの約束を破って、映画に行ったのである。そして、その一方の相手とは、偶然にもその日のうちに会って、曲がりなりにも約束を果たしている。
 漱石が『こころ』の中で罪悪だといっていると Sam が教えてくれたことの小さな話が、また出る。「また」というのは、Lotus と会えば、必ずその話が出るからだ。彼は Minnie について、うわさ話をした。そこに Funny でなく、Sam の名が出てくるから、うわさ話のでたらめさが知れる。Jack は後ろ頭を畳につけ、脚を組んで、早く他の話に変えて欲しいという顔で聞いていた。ぼくを除くわれわれ(第一人称単数を含まない第一人称複数を表す言葉が欲しい)は、海の話もした。貝獲りの醍醐味がその中心だった。

 われわれが集まっているときの中心は、どうしても「罪悪」の対象を木曽坂の途中の家に持っている Lotus だ。彼の発言や叫びは小説的だ。Jack の机の上に英語の虎の巻を見つけて、「おう! わが同胞よ!」といったり、壁を這っていたアリを Jack が厳かに殺すのを見て、「ああ! 神様、彼は彼の犯罪について法廷で黙秘権を行使するでしょう。しかし!」といって、祈ったり、がぜん、彼の父の職業である弁護士の真似をしたりする。
 Jack の家を出たのは四時頃。われわれは木曽坂を通って帰ることになる。Lotus は、途中で TKR 君とぼくを真っすぐ行かせて、遠回りをした。彼が出会うことをなぜか避けた「罪悪」の対象は、『波』の著者と同姓だと何度も聞いたが、ぼくのさっぱり知らない人物だ
(注 2)。紫中に在学しているそうだ。遠回りした Lotus とまた一緒になって、彼の家の前で別れる。彼は丁寧にも、TKR 君とぼくの姓を別々に呼んで、その後に一人分ずつの「さようなら」をつけた。(注 3)(つづく)
引用時の注
  1. MRT 君と同姓の学生が同学年に 3 人いたので(われわれが親しくしていたのはその中の 2 人だったが)、あだ名で確認したのだ。
  2. 「さっぱり知らない」と書いたが、いまになってふと気づいた。それは、私たちが卒業した後の中学校の新聞の論説欄に、私が以前書いた論説をほとんどそっくり真似た文を書いていて、私を嬉しいような悲しいような気にさせた女生徒ではなかったか。いずれにしても 60 年あまり前の話である。Lotus は 30 年ほど前に早くも故人となった。
  3. この日の Jack の家でのことは、別の日の Lotus の家でのことと合わせて、私が翌夏、国語の宿題として書いた創作「夏空に輝く星」の一場面に利用している。