2014年7月20日日曜日

高校 3 年のときの創作『リップの円形劇場まで』(原題「逍遥試し」)PDF 版


 先にこのブログサイトに 5 回に分けて連載した高校 3 年のときの創作「逍遥試し」を一つの PDF ファイルにまとめ、『リップの円形劇場まで』と改題して、私のウェブサイトに載せた。こちらのページからダウンロードしてご覧になれる。

2013年10月16日水曜日

Sam と Ted の写真


 Sam(向かって右手前)と Ted の 1959 年(24 歳)の写真。夏休みに女性の友人たちを誘って旅行したときのもので、場所は志賀高原あたり。Minnie にその友人を連れて来るように誘ったのだが、彼女の友人たちは誰も都合がつかなくて、Sam が彼女の話し相手にと、彼の上司のお嬢さん(Sam の後方に半分見える女性)を誘った。Sam のカメラで Minnie が撮影。Sam の頭上に、遠方の家が小さな帽子のように乗っかってしまった。

2013年10月15日火曜日

日頃の異常な精神の現れの一部


友人たちとの文通記録

Sam から Ted へ: 1959 年 10 月 10 日[つづき]

 時計は午前二時を指している。表通りの騒音もようやくおさまって、風の音と、ときどき通る車の排気音や遠い汽笛の音が聞こえてくる。ここ数日、昼と夜をとり違えたような生活をしており、それが焦慮感となって、普通以上に不安な気持を加えていたが、いま初めて、落ち着いた気分になる。まったく、君の手紙によるところ大である。昼は働き、夜は寝なければならないという固定的な概念、一つの習慣としてきたものが、絶対的なものではない、ということを体得しただけでも素晴らしい。もちろん、不規則で不健康ではあるが、夜は寝るためにだけあるのではないということを再発見したことに意義がある。歴史は、夜作られなければならないのだ。
 取り止めのないことを書いたが、幾分異常な精神が作用している、あるいは、日頃の異常な精神の現れの一部としておこう。
 夏休みの旅の締めくくりを同封しておくから、読んでもらおう。楽しい旅だったと思う。「おおジグリー」
(注 1)も「エルベ川」(注 2)も「若者よ」(注 3)も正しく歌えるようになったが、「先生」には聞いてもらう機会がまだない。「ユーカリ」(注 4)へも、君がいない間は、まず訪れることがないように思う。明日から関東へ旅に出る。
 いろいろな意味でありがとう。

 一〇月一〇日
S 拝
達夫君
[完]
引用時の注
  1. こちらにある「ジグリー」のことだろう。当時私は歌を歌うことが好きでなく、あとにある「先生」こと、われわれと中学同期の女性(高校時代の日記に Minnie のニックネームで登場)の指導をちゃんと受けていなかったばかりでなく、指導があったことさえも覚えていなかった。「先生」が列車の中で「Oh My Darling Clementine(いとしのクレメンタイン)」こちらでは、これが主題歌であった映画『荒野の決闘』のシーンをバックに歌われている。日本版歌詞「雪山讃歌」こちらに両歌詞が掲載・比較されている)を英語で口ずさんでいた記憶はあるのだが…。
  2. こちらの YouTube 動画で聞ける。
  3. この歌は知っている。こちらに YouTube 動画が、こちらに歌詞と楽譜がある。
  4. 私の大連時代の幼友だち姉妹の姉のほうが、彼女の夫と一緒に金沢の中心街・香林坊の近くで、この年の夏に開店し、しばらく続けていたスタンドバー。私が夏休みの帰省中に Sam を誘って一度訪れた。

2013年10月14日月曜日

人生はこれでよいのか


友人たちとの文通記録

Sam から Ted へ: 1959 年 10 月 10 日
 引用に当たって:先に 私 Ted が 1959 年 12 月 29 日付けで書いた Sam への手紙を掲載した。その主題は、Sam が高校 3 年のときに書いた創作を読ませて貰っての感想だったが、冒頭に、「君の手紙にあった悩みのその後の心境について、『あきらめた』という返答を聞かされたのは、何だかあっけなくて興ざめだったが、…」とあった。Ted がここに言及している Sam からの手紙に相当すると思われるのが、以下に引用するものである。社会人となって 6 年目の Sam が Ted からの手紙を受けて、返信として書いたもので、黒に近い青インクで便箋 4 枚半に及んで綴られている。句点の追加など、読みやすくするための若干の変更を加えて引用する。Ted は友人たちへの手紙をおおむね日記帳などに下書きしていたが、この返信のもとになった Sam への手紙の下書きは、なぜか見つからない。
 泥の中の眠りから、いま目覚めたところだ。太陽は、やがて西に沈みかけようとしている。よい眠りからは平安と充足が得られるものだが、このような眠りの後には、一種の空虚さが身にしみる。無目的で不確かな生活の連続は、人生を怠惰にする。
 旅行の最終コースを終えて列車に乗るとき
(注 1)、ほっとした安堵とともに、例え難い空白が去来する。明日からの仕事に対するわずらわしさではなくて、人生はこれでよいのかという疑問が頭をもたげてくるからだ。仕事に追われ通しのときは、それすら心に浮かんでこないのだが、このようにして、心にややゆとりが生じたときに、この疑問のためにかえって落ち着かない気持になる。
 このままの生活が、二年も三年も、いや、もしかすると一生続いて、そして淋しくこの世を去らなければならないのだろうか。そして、一、二年もすれば、誰もが永久的に忘れ去ってしまうであろう。選ばれた一部の人たちのように、その人の社会的功績が歴史を通じて語り伝えられるということがなければ——。
 そのように努力し、優れた才能を発揮することは不可能でないかもしれない。だが、現状からして、それをどうして行なえばよいのか。一個の人間などというものは、水の分子のような存在にしか過ぎない。抗し難い一つのジャンルの中にありながら、それはそれなりに生き方をもってはいる。
 よろこび、あるいは悲しみも、小さな生活の中にすべて求めなければならないのだろうか。例えば、結婚、育児、それから、職業を通じて、いくらかの社会的貢献をすることなどに。
 そして、小説の舞台を求めるならば、広い社会層にわたる雄大さでなくて、悩める魂の奥深い淵を追求してみたい。小説のためには平凡さでなくて、強馬力の発電力を備えた頭脳と肉体を必要とする。単なる興味や酔狂で書けるものではない。一つの信念ある基盤にたって考察すること——。
(注 2)[つづく]
引用時の注
  1. Sam は大手旅行社に勤務し、この頃しばしば旅の添乗業務をしていた。
  2. この段落は、Ted が、「いま小説を書くとすれば、広範な人々が登場する、政治・社会の問題を含んだ雄大なテーマでなければならない」という意味のことを書いた(実際に小説を書きたいと思ってではなく、いろいろな問題に興味をもち始めていることの表現として書いたのだが)ことへの返答であろう。

2013年10月13日日曜日

Ted の高校3年のときの創作「逍遥試し」(5)

×     ×     ×

 《馬鹿なことを考えていたものだ》と常夫は思った。まだ、雨は降り出していなかった。《映像の展開ということを実験したようなものだった。いまさら実験するまでもなく、これは私の幼い頃からの癖ではなかったか。想念の逍遥、独りでいるときの想念の漫歩は…。いや、こういう習慣を持つのは、私ばかりではあるまい。私はその逍遥の中でいろいろな行動をした。よいものもあれば、悪いものもあった。しかし、常に新しいものだった。想念は、よかれ悪しかれ、いつも私の先導者だった。反省といったものも、これによって行われた。
 《これは明らかに、一つの道具だ。創造的な道具だ。――何だか分かりかけて来たぞ。――これが自由に働き得るのは、…》このとき、本当に雨が降って来た。常夫は腕時計を見てはっとした。ケートと別れてから一時間近く歩いていたことを知ったからだ。《彼女は、とっくに目的地へ着いて待っているだろう。もう少しだ。》彼は駆けた。


 谷川の音が聞こえて来た。ぽっかりと格好な入口が、びっしり立ち並ぶスギ木立の間に開けて、彼を迎えた。《おや? いない。》彼は重いものが胸に突き当たるのを感じた。谷川の流れは藍色になって、砕け、砕けて、足下を走っている。
 「ケート!」
と呼んだ。答えはない。
 雨と渓流のリズムだけが、つれなく続いている。
 暗いものが頭をかすめる。


 もう一度呼んでみた。すると、
 「ほほほ。」
という笑い声が、後ろから彼を捕まえた。
 「何だ。びっくりさせるじゃないか。」
 「あまり遅いからよ。」
 「川へでも落ちてしまったのかと思った。」
 「ずいぶん濡れたのね。」
 「君は、…いいよ、いいよ、…君はどうして濡れなかったのだ?」
常夫はケートがハンカチで顔を拭いてくれようとするのをさえぎりながら聞いた。
 「ほら、あそこに。」
 「なるほど。いい洞(ほら)があったね。」
 「ふふふ。…それ何?」
常夫が自分のハンカチと一緒にポケットからつまみ出した紙片を、彼女はとっさに取り上げた。常夫はそれを取り返そうとして手を伸ばした。
 「『最も貴重なものは人間の孤独な心のうちにある。』…あっ、これですね。こんな行動をわたしたちに取らせたのは。」
 「あ、そうだ。想像の糧をこねるヘラである想念の活動が可能なのは、『孤独』の中においてだ。なぜなら、そのヘラは、自らが握らないときには、ヘラとして働かないものなのだから。そのヘラを振るう工程が頭の孤独な逍遥だ。」
 「何を寝言のようなこといってるの。想像をこねるヘラだなんて。」
 「そう怒るなよ。…それで、ことばが理想的には方便に過ぎないとも考えられる、ということが分かるわけだ。」
 「少しも分かりません。」
 「まあ、いいさ。」
 「いえ、分かります。わたしが経験の堆積物を彫る『ノミ』といったのに似たものでしょう?
 「うーむ。それと同じかも知れない。ぼくは回り道をして、やっと君の考えにたどり着いたのだ。……」
 雲が切れて、彼らのささやかな「円形劇場」へ日が射し込んだ。雨は七色に輝きながら、軽く降り続けている。紙切れを媒介にしてケートと手を取り合っていたことに気づいた常夫は、《われわれは、いま、こうしてことばを使わないで語っている。そうすると、われわれはこの瞬間に何を創造していることになるのだろう。…そうだ。われわれの胸の中に…。いや、これは自分勝手な思いかも知れない。…》などと考えていた。(注 1)[完]

×     ×     ×

 この一文を S. M. 君 (注 2)に捧げる。――われわれの間の日記の交換によることばの生活から得た思索の最初の一成果として。――

×     ×     ×

 [以下は、この創作の下書きを記してあった Sam との交換日記の文章 ]
 最後の 2 行は、ちょっと体裁をつけるために表紙の裏に書くつもりのものだ。一成果というほどのものでもないかも知れないし、最初の成果でもないかも知れないが…。昨年「夏空に輝く星」を書いた後に記したようないろいろな弁解は書かないから、これを厳しく批判してくれ給え。(1953 年 8 月 9 日、8:10)
2006年にブログに掲載したときの注
  1. 薄紺色の文字の部分は、引用に当たって付け加えた。(下書きの出来た部分から順次原稿用紙に清書していたので、制限枚数20枚に近づいたことを知ったためか、完成を急いだのか、終りへ来てやや記述の飛躍、あるいは説明不足が目立った。)そのほか、言い回しについては、ところどころ修正をした。特に、ケートの話し方が「てよ・だわ式」になっていた部分は、1950年代にしても古風過ぎると思われたので、書き換えた。
  2. S. M. は Sam の本名の頭文字。